微生物的環境技術研究所主幹 平井孝志
「微生物様は神様です」が口癖の平井先生は、環境とは生存条件と言われます。宇宙の摂理に基づき自然と共に生きる知恵を持とうと語られうお話にファンが多くおられます。


過去のレポートも、どうぞご覧ください。


50号「2012年に思う」


 20世紀の初頭から先進諸国は資源獲得、それに伴う領土拡張を企んで競い合っていました。第一次世界大戦はヨーロッパを舞台に始まり、第二次大戦を経て、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、イラクで火がついた中東での戦い…と、人類にとっては恥ずべき世紀でした。21世紀に近づくにつれて昔流の戦役が極度に戦略化され、イラクでの湾岸戦争は、徹底した機械技術、電子操作であやつる爆弾、ミサイル攻撃を大掛かりに展開する戦いになり、遠い花火を遠隔操作で解説されながら映画を見ている様で、一般の人間にとっては、その暴力が見えにくい姿で進行していっていました。20世紀の歴史は、或る次元から極度に美化され、一方的に構築されたまま、21世紀に突入しました。

 和合を求め、真面目に行動する人たちの世界にあふれている人道主義的積極性、それをベースにした行動を尻目に、今の時代を実際はどう生きていけばよいのか、という不安に喘いでいる沢山の「まじめ人間」がいます。勿論、全く無関心で己の利害のみ、自己防衛の保全のみに執心する人達も少なくありません。このような時代にこそ、過去の歴史をふりかえって民族・国家間の融和が求められるべき時代なのに民族や宗教界に一層分断化の様相が目立つようになってきて悲しい思いがします。所謂、資本主義国家社会も、共産・社会主義国家社会も、夫々の社会での貧富の格差が縮まる様子は無く、国自体が欲望の交錯によってぐちゃぐちゃの有様で、虚業的「金もうけ」や国家による資源獲得争奪をめぐって、益々世界は欲望中心の生き方が強まっていて、なかなか良くなりそうな気配がみえにくい昨今です。「和の哲学」で知られるわが日本民族は血判を連ねて出番を決意したいですなぁ!!

 只、21世紀に入った今日、ましてマヤ歴の区切りである2012年12月を境にして、或いは人間たちの欲望に激変が起こって欲しいという期待を込めて、世界の人々の間に、地上人類生存の大変な転換が来るんじゃないか、その為に私たちは何かをしなくてはならないのだ、という機運が起こって欲しいと思います。まして、日本人は、昨年の3.11東日本大震災を経験したこともあって、同胞の苦しみを自らの苦悩として何らかの支援を使命と感じて行動しようと決意できた人々の体験がありました。この実体験が、日本人と国家にとって自分と社会・国家が今後は、本当はどう生きていけばいいのかを痛いほど真剣に考え、行動する必要を人々に教えた事と思います。
生命(イノチ)という巨大なモノの中には、大災難が体験されて、はじめて気づける事が沢山ありましたね。科学的認識を越えた向う側に、如来と言うか、神と言うか、宇宙生命と言う風な存在が持つ「心」があると心底思いました。それと同時に、これ程多くの人々が本当に純粋な「助けの行動」を起こして他者と一体になって、この難儀を超えようとしておられることに感動し、感激しました。皆様夫々の体験、夫々の苦しみ、喜び、悲しみ、同情心、慈悲の祈りをなさったことでしょう。

 筆者である私は、昨春以来、鶴田商会さんの関係者に混って、福島県飯館村に於ける放射能除染作戦に加わり、東北の農耕地に復興のリアルな兆しを呼び込めないものか、と祈りの行動に参加させてもらっています。せめて、現地の方々の心の復興に寄り添えたら、自分も何と誇り高い気持ちになれることかと、人間同士の明日に宇宙神の救いが増殖して下さればと念じているところです。私としては、自分が生きてきた「依り処」の「微生物さま」に強烈なご協力を下さるよう日々お願いしながら、実践的なベストの成果を念じている次第です。


51号「小鳥の囀り(さえずり)と生命界の深奥」


 昔から言われるように、『暑さ寒さも彼岸まで』です。3月下旬に入り陽の光が春の盛りを予言しています。東北の山々の樹木も芽を出しはじめ、環境条件が似ていると言われるイベリア半島(スペイン)でもどんぐりの木が緑を増していることでしょう。イベリコの豚肉が美味しいと言われるのは、一重に自然が育てた「ドングリ」を食べているからと教えてもらった十数年前から、私は東北の大自然の懐で大々的に養豚、養鶏を奨(すす)めて行きたいと希っていました。微生物で発酵させた飼料を添加して、無臭排泄の畜産を実践すれば、排泄物が発酵処理され、有益な、リッチな野菜、豊饒な堆肥、無生物と生物の境界もない──全体が一つになって其処にある・・・そんな生活・生命圏の構成を夢みていました。
  事実、1996年頃から宮城でのモロヘイヤ栽培、プチベール等の無農薬生産に自分としては精一杯の「自然学」的な技法を提供してきた一幕がありました。今でも当時の協力を高く評価して喜んで下さっている方も複数おられます。技術、資材ばかりでなく、農を中心にして生命管理に対する考え方をそれなりに、沢山なことを披露して来ました。

 今にして自覚できていることと言えばこうです。『余程、深意深く自然を観察したり体験しないと、我々人間は生まれたての虫ほども、自然のことは解らない存在だ』ということです。格好つけて言えば、農業という自然相手の仕事を見事にやり抜くには直感が余程鍛えられないと、色々な科学的提言が書かれた参考文献も「知識のストック」で終りだ、と。
春先の今のような時期に、こういう話が浮かんでくると決って思いだされるのが環境という大自然を背景として、世界人類に農薬というか、殺虫殺菌剤の乱用に大警告を発した、米国の動物学者で作家のレーチェル・カーソン(Rachel Carson ─ 1907~1964)の著「沈黙の春(1962)」の持つ大きな意義です。1944~5年にかけ、世界は第二次大戦の終結に向かっていました。大軍が東南アジアに展開されていて、その主軸は米国の軍隊でした。熱帯地域であるインドネシア、スマトラ、ボルネオ、ニューギニア等々日本軍が占領していた地域に総攻撃をかけるにあたって、米国兵を悩ませていた吸血昆虫、蚊や、ぶと、蜂、蟻などの小動物を除去することを目的として、人間には安全である殺虫殺菌剤を開発、大量に散布しました。

 やがて日本は原爆と連合軍の大量の兵器の前に敗戦。私は中学3年生で、もう既に軍隊教育の最中でしたが、戦争に敗れた国の人間は、末端まで生活環境は劣悪でした。占領軍である米英兵士が、蚊や蚤(のみ)、シラミ、などの被害を受けないように、日本人も一緒になって当時、殺菌殺虫剤の代表薬であったDDTを頭から散布され街々の隅々までDDTの白い粉でまみれていました。これは実によく効く薬でしたが、人体にも多少害があって、のちに使用禁止になりましたが、1946年以降、農薬として農業地にそれこそ国々の隅々まで散布されました。これは日本だけでなく、米国内でも面白い程害虫が居なくなるというので使われました。

 DDTのせいで死んだ昆虫を食べた鳥たちが、やがて大量死の悲劇に巻き込まれることになります。そのことで生態系の生物群が連鎖的に亡びることになる、と大警告を発したのです。事実、春になっても小鳥の囀り(さえずり)は聞こえず、世界は死の沈黙を演出したのです。この地球的生命の危機を初めて具体的に指摘し、環境崩落の危険を予言した科学的小説こそ沈黙の春(Silent Spring)だったのです。
人間には些細なことであっても、あらゆる変化の裏には相互に絡み合った無数の原因が隠されているので、深く直感する経験と注意力が必要で、ここに動員される観察力は「悟り」であると思ったことがありました。自然は正直で、無駄なことはなさらない。孤立して生きる生命体はありません。ここから導かれることと言えば──こまぎれの科学知見の断行でない処に真実の根っ子が複雑に延びているという構図から、哲学の真髄でもありましょうか。

 全く、大自然は一対一の因果関係ではないので、こうすりゃ、ああなるという人間の軽々しい頭脳論理が通用しないので厄介と言えば、厄介この上ない存在で、奥は「謂はば」“御簾(みす)のかかった神が住む世界だと思えば当たらずとも遠からずです。

52号『間合いと合わい』≒《気の置けない距離と安堵感》


 剣道なんかの練習で道場・体育館に入ると何とも言えない清涼感がありますが、いよいよ練習試合にでもなり相手の竹刀(しない)の剣先と微か(かすか)に触れると、お互いが気合と距離感を測れます。餅つきの時は、杵と水打ちの両人の意気(息)が合わないと作業になりません。

普通、『間合いをとる』なんて申しますが、手作業が日常生活・生産行程で多く使われていた昭和の時代は日常頻繁に「間合い」とか「合わい」とかを空気で読むことが多かったと思います。これらの言葉は「会う」とか「合う」の連用形で、人間社会での二者相互のやり取りが、今日でも逢う・meet-joinや合う・fit-matchは、社会構成員の食事作法のようなものにたとえて理解されているやに思えます。

つまり、この「言葉の部屋」では「おのづから」(自ら)と「みづから」(自から)を自在・無意識に行動する本人が絶妙に使い分けつつ社会の和合空間、協調・競合の場をくぐり抜けて生活しているように見えます。皆さんはどんな表現で、この蝶々の舞いのような感覚と行動の揺れをご説明されますでしょうか?人間という動物の公共的世界運営の場を、進歩発展的な『和力』を━━「まあい」と「あわい」の空気で繋いでいるのは明らかですねえ?!
 人間社会における私たちの生活は単身単独での「世すぎ」はあり得ません。何らかの意味で窮屈であっても他人さまのお世話にならないと、普通は水一杯を口にすることもできません。機械論的な自由では生きられないですから、自己が生きるためには、否が応でも他者を生かす(活かす)ことが絶対に大切だとわかってくると人間の仲間入りが許されるというのが、人類が古くから培った生物としての哲学なのですねえ。宇宙生命論的自立というのは、漠然とではあっても「あわい」「まあい」の時空論的共感の下にのみ成立する概念である訳です。

 「モラルとか倫理が欠如している」と指摘される時代ですが、それを是正する運動モーメントを東日本災害地復興実践に結びつけることで、日本を根底から建て直す必須のタイミングが今日と言えましょう。こういう自然災害地の復興には『自然を第一にする常識』から継承されてきた『自然法則を「技法」というか、「技術」として』活用させて頂くのが何よりなのです。その技術の根本には「地球あっての私たち」の尊い概念が埋まっているからです。被害地の回復を目指すなかで、その技術の延長線上には地球生態系存続を必然的に保証するような現実が結果として実現される筈であります。
 どんなやり方でも、とに角その場から放射能を除染することでOK、というのは復興と呼び難いと自覚し、その除染の延長線上で、東日本の全体的「復幸」を進めることに即、つながるのだと見込める手筈を整えつつ環境を回復して欲しいと考えます。法律などのように解釈次第でどうにでもなるような復興こそが、「絆」という祈りの輝きを崩すのだと思います。固くそう信じ、それに添うように東日本の復興に、皆さん共々にかかわって参りたいものと思っています。

 『私の告白なんですが、どんな不定形な人生であっても、最も身近な他者(配偶者・友人など)に支えられてしか、即ち小さい“公共”の中でしか「幸い」は完成しません』そう思っています。皆々、幸福を願わない人間はいない筈で、そのスタートラインの「心得」みたいなものが「間あい・合わい」ということでしょうか。
そのことで広大な場―地球と、時間の交叉する幻妖な空間で成熟し、合流する人々の心がお寺の梵鐘のようにおのづから(ひとりでに―大海原の波のように)響きあう絆の世界ができあがるように思います。
この一文を機に、「絆」を行動の「音符」として実感して下さるなら、それこそ萬歳です。

[まあい]≒間合い≒keep distance, seeking timing  相手との距離感、気合い
[あわい]≒会う+合う≒meet, fit, matching  会う、丁度いい感じ、適合度


53号「日本人の果たすべき浄化」


 この尊大な題は、明治の哲学者「三宅雪嶺」先生の壮年期の言葉から借りたものですが、今日、まことの浄化がこの国に求められているのだ!!と強く同感される方々は大勢おられると信じています。中でも、先生の気迫ある愛人間の熱い提言「日本人の果たすべき使命の実現には徹底的な“日本の浄化”が必要である」という言葉は、私には宇宙神からの直言と響きます。

 人間、殆んどの人は、その人なりの「土壇場」に追い詰められた経験をお持ちであろうかと想います。即ち、誰も、自分が「ドタン場」という意識で対応する以外に仕方のない体験。また、どうしても忘れることのできない「心に焼き付いた」声とか、メロディーも、私たち夫々が死ぬまで凄くなつかしい音として、響きとして持ち運ぶことになる幼児の頃の記憶、母親のあの仏さんのような柔らかい肌のぬくもりも、生涯の力・エネルギーとして、土壇場で頼れるものであると言えないでしょうか。悲喜交々、絶大・絶好の愛、あるいは逆に、行き場のない苦悩の体験が身に焼きついていると、予期しない苦難の時の守護神のようになることもあると思います。

 3.11あの大震災から叫ばれることの多い「がんばれNIPPON」「日本の復興は東北から」、「絆こそ我が日本の和の哲理の象徴」等、それを唱えると宇宙生命力の芯棒を握っているように錯覚します。そんな希望への確信の話題の飛び交う中、今月・七月に入ってからの悲しい・腹立たしい、情けない話題が毎日のように報ぜられた滋賀県大津市の中学生たちによる同級生『いじめ』問題は信じ難い、残忍性がむき出しになってしまいました。自殺した中学生は何とも憐れすぎます。責任をかぶらぬよう言葉を選んでおられる責任ある方々の姿をTV画面に観て、何とも深い悲しみを覚えました。

 精神世界の理想郷は「足るを知る」・根っ子になる躾(しつけ)。和の世界には厳しさのある「べき論」教育も大切かと思うのです。どうでしょうか?皆さん。大量の水で薄められた味噌汁のような、味も素っけもない、ただの水より「マズイ」お椀の中の色のついた汁のような、気取った器(うつわ)に優しく入れた形ばかりの「吸い物」(教養語)では、若い中学生たちを善導し得ないのでは?と強く危惧します。テレビの中は、毎日が薄められたお祭りみたいなところが多くなっていると思われませんか。
 昭和10年以降の日本と、今の日本はどこかが大そうよく似ています。快楽を煽(あお)るニュースに焦点を合わせ、スポーツ、美食を追い、人間とは何か、「生命(いのち)の実相」など大事なことをボヤかし、ごまかしています。私が現象の背後(うしろ)にあるモノゴトを覗き見ようとしたり、憶測したり皮肌を超えてグゥッーとくる予感、正義に悖(もと)ることを憤るのは 戦後や青春時代の凄(すざ)まじい逆境に呻吟してきたからでしょう。そう思っています。

 魂にとって必要なものを手に入れるには「時として」強烈な躾・作法の強制も大切です。ヨーロッパなどでも、中米でも、ここ一番という時の教育は「本気の特訓」例が日々の生活に盛り込まれています。「清々(すがすが)しい言葉」で将来を展望する声かけをし、子供たちに強く語りかける勇気を大人が忘れてどうするというのですか。
 この地球、この環境の要素は総て全体として動いています。なのに、断片を追うように責任者が熱い生徒(人間)愛を横目に、明らかに責任を逃れるための弁説を繰り広げる姿をテレビ画面に観て、三宅雪嶺先生の先掲の言葉「日本の浄化」を思い出しました。何に就けても「いのち」という全体を追い続けて生きること肝要と信じます。学校の生徒達を預かるお方の責任は、生徒たちの「生命(いのち)」をあづかる芯柱なのだ、とする勇猛心があれば、些細なことも重大なことも、すべて宇宙神の支持と捉え、勇気ある行為について根本の知恵が天から授かるのではないでしょうか。

 暗い洞穴のなかで呻き苦しんでいた若い中学生の声をイメージし、絶叫したかったあの子の代弁を我々の一人ひとりが少しずつ分担してでも率直な想いを、彼の冥福のために、そして、その先の『日本の浄化』のために、一人でも多くの霊力・意識力を宇宙の彼方から引き出してもらえたら、何とこの地球と、この国と、地球生物のために喜ばしいことでしょうか!!

54号「先人の願いを背負って、問いつつ生きる」


 東日本復興のため仲間と共に試行してきた放射線汚染環境除染の実験に明確な数値上の結果が出てまいりました。汚染のない作物を作りたいと願われる被災地の人々にとって希望の一端になればと関わっている活動の成果です。私たちが提案しているのは、四十余年研鑽を重ねてきた「自然学」に裏付けられた共生と循環の「技術」です。

 根本原理とは宇宙摂理以外にない、そう思っています。自然現象を論理的・感性合理主義的にみますとテクノロジーでは環境問題――生命系の諸条件・私たちの生存に関わる問題を正しく整備できず、環境汚染は解決できません。人間は大自然に対して謙虚にならなければなりません。今こそ私たちは、天地への畏敬の念を想起し、「損得」勘定という貧しい価値観を捨て、地域と日本全体の将来像のヴィジョンの下、天地自然と繋がった真正の農業のあり方を再構築すべき時だと思うのです。

 生物の生態系を守ることは私たち人間を守ることでもあります。現象する大自然(・・・)の生命を守り育てるのに革新的技術は不要です。地球上の微生物が何億年も支えてきた生命界のシステムを正視し、且つ深く考慮して、自然をそこに戻すことこそが生物の生存条件を整える環境技術(あえて「技術」という言葉を使うとすれば)だと思うのです。一心になって、必死に田圃を見る。山の神(自然)と一体となり、自然の発するサインを見落とすまいと注意深く自然界の隅々にまで心を運び『其処で暮す節度』を守ること。

 「持続可能」というのは、つまり次世代、次々世代…と、その子孫たちが長く其処で暮していける社会のことです。昔から村落に伝わる「結(ゆい)」という組織が、目的毎に随時招集され協働して「モノゴト」を仕遂げていく習わしが山岳部村にあり、稼ぎと仕事は別でした。ミズナラやクヌギは幹を切り倒しても切り株から芽が出て、それが大きくなり30年ほどで元に戻ります。秋田では33か所共有林があって、次々伐っていくと33年で元に戻って太くなった樹に囲まれるという按配で、伐った樹の枝は燃料として稼ぎになります。
 ネズミ・ネコ・象・・・みな持っている時間が違います。知恵を出し、「人間の生活時間」を樹の成長に合わせてゆく・・・それが仕事であり、稼ぎではないという文化なのです。植えて200年後に伐る檜は5~7代過ぎて、やっと稼ぎになりますから村落共同体は協力しあい、工夫し合って生活を支えあわなければ生きていけません。

 どんなに人間が“個”を主張しても、“個”で死ぬことは不可能です。「死に水」はともかくも「死体」はどうするのか?介護も、環境の問題も昔の「結(ゆい)」という共同作業体のような繋いでいく組織でないと何もできません。「結び直そう」「つなぎ直そう」では、次の世代に心は伝承され難い。伝承はその「まんま」もありますが、現在ここに生きている人間だけの多数決で決めては「イカン」ものもある!!――という考えを持って、「結」の話し合いが100時間も続く中で改良されることもあり、それこそが我々日本人の文化だと教わってきました。

 戦争で焼け出され、翌年には水害にあい、それこそ身ぐるみはがされ、何もかも失った青春時代。だからこそ少しはいのちを深く考えることができるようになったと思います。この年齢になりますと、子孫の為に闘った田中正造翁の気持ちが胸に迫ります。数限りない先人の願い・努力の賜物で今があります。死者の願いを背負い、問いつつ、次に繋いで生きることが大切です。人生は厳粛です。一時・一時が「やり間違った」と言って、いちいち消しゴムで消せるでしょうか。NOであります。微塵も消せないのが人生です。だから素晴らしいのではないでしょうか!人生は、高価な色紙に円相を描くようなものです。真剣白刃(はくじん)でないと、色紙がいくらあっても足りません。

 人類は『超合理(○○○)の認識こそが只一つ(○○)の(○)宇宙核(○○○)である』ことに気付かねばなりません。人類が今日まで踏み迷ってきた人間科学の傲慢を悔悟し、かけがえのない生命世界である地球の将来に責任を果たせるよう、人類合同して真剣に祈るほかない、というのが今の私の思いです。難しく厄介なことですが諦めないで参りたいと考えています。

55号「『悲しみ』は魂の覚醒を呼ぶ妙薬」


 私たち地球上の生物は全員というか、全種類はすべて宇宙生命エネルギーによって創造された―創り出されたモノであることは言うまでもありません。ところが、知能の発達を優(秀)れて与えられた(・・・・・)人間たちは、ともすると「その大事なこと」をすっかり忘れていますねえ。
 昨年、2011年3月11日の東日本の大震災が人間に与えた衝撃と悲壮感は日本人を友情の絆で結び合わせたと、私は自分自身の内側から見つめさせられました。――そう思いました。多くの日本人は深い悲しみと、同情で、日本列島に住みついている同胞たちと一緒に、この列島の国を深い悲しみと災害に打ちひしがれた状況から立ち上がらねばならないと愛国・愛人間・愛山河の心が湧きたちました。

 普通の愛情をうけて生まれ、育てられた人たちで、好んで悲しみを受けたいと思う人は多分、居ないでしょう。好き好んで悲しみを拾いに行く人は居ないが、生きていると否応なしに悲しみに逢うのが人間というものの宿命でしょう。でも悲しみは、吾々の誰もが「人間」になるために必要な感性を身につける為に宇宙の生命府が用意した魂にとっての薬なんでしょうね。
 特にあの大震災の、あの地獄絵のような地震の惨状、津波の恐ろしさをTVや写真・報道で見聞きして、殆んどの人たちは、この地球大自然の巨大な無情風景を前に悪人では居られない・・・ある衝動に心打たれたのではないでしょうか。人々の災難を観て何とも言えない力で他者への愛が湧き立ってくるのを覚えたのではないでしょうか。
東日本の災害のあの映像群は、自分自身の利己的な態度や傲慢を取り除く方向へ私たちを導いてくれたのではなかったでしょうか。ああ、何と、あの地区の人たちの幸運を祈ったことでしたでしょうか?!無限の同情と愛が、無意識のうちに湧いて、沢山の祈りと英知が湧きあがって来て、魂が揺さ振られるのを意識された人たちが沢山居られたことと思います。我知らず、自然にすべての生あるものへの優しい心を捧げた人たち、そういう経験、魂の「禊(ミソギ)」のような絶叫の境地を味わったと、私自身、自己の内側の世界に呼びかけていました。そして、想い出していました。私の友人の印象深い手紙の一節を。古いものでしたが、10年以上経った今でも憶えています。

『魂こそは、無限の英知という大海原へ船出する港である』と。

 自分自身の「若気の至り」という誤ちほど、自分を今の自分に導いてくれるエネルギーというか、エンジンはなかったと反省し、感謝しています。本当に、何も世間がわかっていなかった自分の青年時代をはづかしく、深い決意を伴った反省で、今も振り返ることがあります。
 この宇宙・地球空間に「佛(ホトケ)」と呼ぶ実在の境涯が存在するのであれば、そこに近づく階段の多くは、浅はかな誤ちと悲しみを機に抛り込まれる魂の氷りつくような悲しみと慚愧(ざんき)で出来ています。そう実感し、自分を深く見返った泥々の、動きようのない魂の沈み切った「悲嘆の部屋」で知ることになった「世間さま」の優しい心――それこそが「佛」と知れる時空時間であった――と今振り返っています。ここで知った大悲、これこそ宇宙神の慈悲なんでしょう。

56号「『環境はモノの集合体ではない。環境自体が一体の生命体(生物)なのです!』」


 現代人は科学の最先端技術を非常に強く、且つ大きく賞賛する。ありがたがる。ハイテク機器には大量のお金を惜しまずに注ぎ込む。ところが忘れてはならないのは私たち生物の「体組織」というハイテクですなあ。宇宙生命論で仕上げられた、紛れもない地球工場での生物体――特に、人類など、考えてみれば、大変なハイテク(ハイテク器)ではないですか?!でも、この地球は全くのところ古いのですねえ。宇宙太陽系という大工場のなかで産生された46億年というお年寄りが私たちの生活圏になっている地球(・・)さま(・・)であります。地球は「宇宙生命」そのものが顕(あら)わにしているハイテクなのでありますなあ!!
 どの辺がハイテクの極みかと申しますと、皆さん、それぞれ、即ち、私たち動物の「からだ」・体組織を観てみると分かると思います。人類が開発したものと違いまして、何と、宇宙と申しますか、狭く限定しましても「銀河系の星々を動かしている力」と同じ質の力で心臓が動き、血液が動くのです。ところが銀河系の星々を動かしている力は不明のエネルギーで宇宙力としか言えないのですねえ。こんな根源的な話をざあーっと追って組み立ててみると、意外と、私たちは生命(いのち)の淵源(えんげん)に就いて、普段は考えていないのと違いましょうか。

 人、人類は「文化」・社会共同生活のやり方も含めて、何百万年にもわたって着実に地球・宇宙の生命活動を正確に伝達しながら合理的に改造し、手を加え、宇宙の法則を子孫に正しく伝承してきました。人類が考えた方法というより、宇宙の摂理に沿うために、あれこれ全力、全知を集めて生き抜いてきました。社会生活を営むに当たって、私たちはその考えが宇宙力に添った流れのなかの考えで構造化された文明・文化の部分なのか、それとも人間達の文化を支えて行く目的だけに提案されているキラキラした箱の中での考えなのかを冷静に凝視し、子々孫々に霊魂に誓って生存条件(環境)に違背しないものなのかを徹底して考究し、遺(のこ)さなければなりません。
 考えても見てください。昔の人は生活必需の品々の品位を厳しく判断するため、詳細極まりないデータ分析などしなくとも、天与の良心に添って、ちゃんと心魂で理解して、日常の文化生活としての慣習を残して下さっています。科学的に判断するには、ある物質をトコトン細かく刻み、そこから分析材料となるモノを分別して引き出し、細分し、法律という条文に照らしてのみ判断する。人造物である化学品などは極めて判定がやり易いので、大自然のものを薬品より下級なものと断定してしまうことがよくあります。
  大切な『心の透視力』・『宇宙生命』から賦与されている「ありったけの自由心」で見通すと、例えばトイレでの色のついた「化学薬品」の粋である香料入りの液体噴霧は、有機排泄物を分解して下さる大量多様種の微生物サマに大迷惑になっているだろうことに深呼吸ともども、考えを及ぼして欲しいものだと思っています。そういう人為的添加材が巨大な宇宙生命論の哲理に添っているのか否かの論議に踏み込まずに、特許が与えられ、それによって無限の使用が守られていること自体に反省の智慧を差し入れる必要があると思うのです。それを文化の必然というのは、生命(いのち)に対して――どうなんでしょうか。

 皆さん、肚(はら)を据えて考えてください。薬品に「いのち」はありますか。自然界に脱臭力ばかり、ビタミンC・Eばかり、カルシウムばかりで出来ているものがありますか。にも拘らず、食品でも日常消耗品としての雑貨のようなものでも、人造化学品の名前がずらりと並べられている商品が多いですね。
大自然の力でのみ生かされているにも拘らず、『自然とは何か?』『生命(いのち)とは何か』を真摯に問わず、じぶんの立場から、自分(たち)が認めようとするモノ以外は頭から受け付ける許容量を持たない人も沢山居るようですが、他者への批判、肯定というスタンス(立ち位置)では、巧妙な言語による偽装が見られる社会的風景に実によく出逢います。今日の日本社会は「自由」という言葉の誤認者が余りに多く「利己の自我増殖の構造」がこの恵まれた日本列島を内面から汚染し尽くす勢いで残念です。
 巨大な自然には、今日の「科学的視野」という分断された境界はありません。私たち人間社会でいう『知的』な区分はありません。言葉の定義なんぞという人間臭い横丁に入らずに深く考えてみますと、環境(生存条件)を整えるには、往々、邪魔になっているのだと知るべきではないでしょうか。日本社会の誠実・健康な存立のため強く提言したいのです。

57号『一つの「イノチ」を皆んなで生きる』


 4月1日は、世界大戦後アメリカの占領下で復興に日本人たちが懸命になっていた頃、春の風に誘われるようにこの列島に入ってきた「April Fool(エイプリル フール)・・・嘘をついてもよい日という訳です。ここに嘘というのは、だまされた方も、その「自分がだまされた内容の好妙さに笑っちゃう」嘘でなくちゃなりません。
言うまでもなく、人間同志の日々の努力の汗を、そっと散らす楽しいコミュニケーションの手法ですね。この習慣を知ったとき、アメリカの大衆文化に、ある優しさを感じたことでした。
 室内の温度・湿度をボタン一つで一定に保つことができる時代でも、地球時間は坦々と刻み進んでおりまして、皆さんと共に、月日は巡ります。変則楕円形の軌道を絶対に外れることなく、この地球さまは時刻を追って、太陽の周囲を時速(1時間に)107,000Kmほどの速さで回っていると計測されているそうですね。秒速にすると30Km弱というのですか!?

 宇宙空間は所謂、真空だと言われていますが、地球を包んでいる空気層に壁もありませんが、何故大気は宇宙空間へ飛んで行かないんでしょうかねえ?よく解りませんが、地球の回転軸も何十億年も安定しているんでしょうから、誰が、どなたがまわしておられるのか───そのお陰もあって、私たちは、この地上で生涯を送っています。やっぱり、これは「有難い」と言う以外に表現できませんねえ。私はそう思って、子供の時分から親にそう教えられたように合掌する習慣のなかで、「自分以外の誰かの役に立つように」努力するのが、そういう宇宙の仕組み(神?)の不思議への当然の姿勢(心の態度)だと躾(しつけ)られていたように思います。

 宇宙、地球の価値は「いのち」と呼ぶものと等しいのです───そう信じ、そう考えるのが妥当ではないでしょうか。皆が寄って、たった一つの宇宙を生きる、とでも申しましょうか、換言すれば、地上で「知」「霊」共に与えられ、高度な生命意識=宇宙意識を賦与された人類が「合言葉」にできる哲学の光は「たった一つのいのちを皆で生きる」という深い洞察を共有する、ということであるべきが本来ではないでしょうか。これこそが、「地球」という宇宙の場で生きているという簡素な心で実感するべき「人類文化の根っ子」でなければなりませんね。
これこそが、一つの根底的価値観であり、「教育の一大目標」とはこの価値観の伝達を第一にしなければならないのではないでしょうか。本当の「いのち」を生きるとは極めて簡素な心で捉えた「宇宙力」に感謝し感動することでは、と思いましょう。
 物質を対象として科学はあれこれ、沢山の存在・法則を発見して、宇宙の存在に解明のメスを入れてきましたが、私は、宇宙の全体を「いのち」と呼び、概念することでしか把握できないモノ、宇宙とはそういうものであると思っています。

 かの著名な物理学者、アインシュタイン博士(A.Einstein)も「宇宙」の解明に当たって科学の力は無に等しい――と嘆いたと伝えられています。
「宇宙力」が生み出す「聖なるイノチ」を全体として概念する方法を「科学」は整備して持っていません。
私たちは科学だけで、即ち、知性のみで各々のイノチを生きているものではありませんね。自然と共にあるという概念、宇宙という「一つを」感謝をベースに簡素な心で生きることで――その究極の実感でしか捉えられないものがイノチだと思います。

 世にいう現代百科事典のようなモノは「生きる」という宇宙力を貫く指針にはなりません。荷物にならない感謝というか、深い不思議に感動することを知ると、それはそれは自然そのものに同化し切れて、自分の中で(皆さんそれぞれの中で)、イノチが神の如く大空の如く「死ぬまで生きろ」と響きます。
こういう精神状態を想定し、自分の中で一息ついて宇宙力と組めば、百事の現実が意に沿って渦巻くに至るのではないでしょうか。我々の一人ひとりは、本来、そういうDNAを持って生きていますので、本来の、その宇宙指令と手を組むのが最良なのでしょうねえ。そう思いましょう。イノチ万歳!!のために。自分をとりまく宇宙力で生きている他者のために。色々な誤ちを乗り越えて!

私のような凡夫が格好つけてこんな風な終わり方をすると何か気恥ずかしいようでもありますが、皆さん、後半をもう一度読んでください

58号「生命(いのち)の根っこ―掘り起こしてみたら…」


 午後遅くに配達されてきた郵便を、夜、手に取り封を切りましたらワーズワースの詩(The Rainbow)の全文が書かれてありました。「『昨年、私(平井)の講話』のなかにあった詩が『父のノートにもありました』。同じロマンティックな真実の話を二人の男性から学んだことになり、興奮して、訳しました・・・」とあり、原文と日本訳が掲載されたものが入っていて、文化とはこういうことなのだ!!と思いました。
 どんなに人間が、”私は、僕は、俺は“と思っていても、つながっているんだ、と改めて悟らせてもらった次第。どんなに生きても、いつか死を迎えます。ところが『個別な人間・・私・俺として死ぬ』ことはできないのだなあ!!と思いました。自分の死骸だって、知友、親族たちの誰かとのつながりの中でしか処理してもらえないんですねえ。人間社会は繋いで、続く社会でないと――共同体でないと、次の世が存在しないんですねえ。

 忘れもしない記憶ですが、昭和九年の夏、私の親(今生きていると126才?)と、父親の後輩N氏(後日、ビルマ派遣の高射砲隊士官)と酒のお商売をされておられたK氏の3人が居られ、数え年5才の「私」がN氏の膝に抱かれて、当時、未だ田舎風情が残っていた大阪城から続く台地(茶臼山)・高津台地の草の多い広場で、鮮やかな「虹」に感動して見惚れた美しい空を、昨日のように覚えています。この日、この時の光景と上記3人の男たちは私の墓場まで一緒なんです!!こういう話の度毎に、3人との「絆(きずな)」は結び直されているんですねえ!!
 とに角、優しい気持ちでしか、こういう想い出は語れません。年齢差も、何も彼も天空に架かる虹の下(もと)で全く消えるんですね。その時の幼児が今、もうすぐ83才という生理的年齢です。しかし、しかしです、自分で言うのも何ですが、未だ学生のようです。旧制中学の時、敗戦後、初めて感動的に受けた英語の授業で、たまたまWilliam Wordsworthの詩、「Rainbow」(虹)を習い、声を出して読まされたのを、覚えています。自分の経験から、“独りで生きて、独りで死ぬ”ことは、人間はできない動物なのだから、絆を軽く考えていると次の世が成り立たないのだと思います。

 この地球は、宇宙空間の一隅に位置する太陽系の一員、宇宙では小さい、小さい星のうちの一つに過ぎないと習いました。私たちは、巨大な宇宙力の流れに乗って動いている容器にすぎません。だから、結ばれて、つながっているらしい生命(いのち)の絆は人間の意思とは別の次元で、宇宙力(生命力の根っ子のエネルギー)によって動かされているものなんでしょう。宇宙力を動かすエネルギーは「他者のために、少しでも役立てればよい」と思う「些々(ささ)やかな」、しかし、真実の心なのではないかと思いますねえ。

 私たち大和民族には「他者と共々に生きる」本能的気遣いが、殊に強くDNAの一部に受け継がれ、プリントされているのではないでしょうか。“大自然の幽玄”を度々、実感する人間としての性向を受け継いで、山野や森の空間そのものに「生きる」実感を掴みとり、その「場」こそ基本的実在と想う、・・・何とも近代物理学の真髄を体(たい)解(げ)――内蔵を総動員してわかったとするような本能的生活習慣が日本人の特徴を表象しているようにも思えるのです。
 こういうことが「大和民族」と普通に呼ばれている私たちの「生命の根っ子」ではないのか? 40億年余りかけて、宇宙が拵(こしら)えて来た仕組みは、人間の意識を研ぎすまさないと、測定機器のみに頼り過ぎてはどこかで破れると思っていなければなりません。
人間の科学的≒合理的認識というか理解度なんてものは、常に近似的でしかあり得ない、と思ってよいでしょう。もう一つ、付け加えたいのですが、『考える』以外に『感じる』という「感性力=感じる力」を使って多くの場合、生きているので、そのことで、人間たちは過ちの少ない行動を保証されていると知らねばなりません。実際問題、「考える」というエネルギーとは何か?について人間は充分、見極めていないのではないですか? 大体、理性的思考作用には限界がある上に、当人の性格が踏み間違うこともある「アクセル」と「ブレーキ」の危うい選択性も見逃す訳に参りませんねえ!?

 色々、理屈を並べてきましたが、煎じつめれば、この宇宙この世界(いのち)の真実は「魂」という宇宙普遍の英(えい)智(ち)(Universal Intelligence)を尺度の杖(つえ)として片手に持ち、家庭から各段階を経(へ)て社会/国々/世界へと拡げて『厳しくも優しい平和』を求める和合の心にしか宿らないと言えるのではないでしょうか。
その為に、私たちが冷静になって心得ておくべきは、(それはやるせないことでもありますが)―こんな事を言う資格が私にあるか否かは別として― 『生きるとは、苦汁を飲む訓練でもある(?)』と言えなくもないと思うので
す。

59号「知性の誤算」


 人間の本質について科学的に解明できると考えるのは人間たちの自惚れ(うぬぼれ)でしょうね。お互い「有難い」いのち(生命)を頂き地球に生を享(う)け生活させていただいているのですが、微生物の眼で正視してみると意外に「思い違い」の誤(あやま)ちも見えてきます。この思い違いのために、深いところで、広範に環境が傷んでいることに気づくことができると思います。そこから生態系の真実が見えます。即ち、あらゆる生類(しょうるい)(動植物、昆虫など)全体を平等に観(み)られるようになるのです。仏法で言う「煩悩を払い除けば、真相が見える」というのがこんなところか?と思っています。

 生物一切と自分が本当に“『あっ!』同じだ”と得心(とくしん)した時は、人生としての自己完成への王道に突入する好機なのです。愛の本質──他者を育て、一緒に生きて行こうとする心― を心魂に収納できるようになる好機が訪れた、と言える瞬間がこれです。「全てを、自分の頭中心に振り回している」と自分が見えにくくなって大自然は勿論(もちろん)、多くを世間さまの世話になってこそ生きられるのだ・・・これが見えにくくなります。まして、空気も、大地の恩恵も視野から消えるのですねえ。更には上の無名なるものがある。諸要素が集合して、そこに生命(イノチ)がある、その集合体が所謂(いわゆる)、「仏性(ぶっしょう)」となり、あらゆる生類を平等に見られるようになるのでしょうね。

 裏庭の小さな畠で百姓の真似ごとを続けており、たまに子供の手の指ほども太いミミズが鍬(くわ)にかかる。「あっ、ごめん」と、埋め戻すのですが、そのたび毎に「あっ、私たちの腸が全くこれだ」と直感するのです。「くねくね、土の精、ミミズ」はあの筒の体型の中に酵素をつくるところから、食べた土の粒子群から生存に必要な諸栄養素らを抜き取り、生存に必要なものを創り、排泄し、土中を動きまわる仕組みを抱(かか)えているんですね。だから、生きて、大地を耕すのでしょう。微生物という殆(ほとん)どが姿の見えないものから、地球は生命の原点形態を創造されたが、ミミズまで大きくなると、嫌でも、生命現象を演出している「生きモノ」と思える。創り手は全く見えない。大地から湧く、というのが率直な不思議です。そして私たち動物の腸は「丸っと」このミミズに類似していると「しっかり」直感できます。

 生命の原点生物─微生物さまが“宇宙力”でつくられて以来、37~38億年と言われます。宇宙がどれ程の「広がり」か、宇宙天文学から数字が実体としてどのようなのか、私達にはわからない。その拡がりの実像は、人間の想像力次第ということに尽きますでしょう。宇宙が始まって140億年程らしい。私は、それで充分だと思います。そのはじめをBig Bang(ビッグバン)と名付けている。その結果、50億年ほど昔、太陽系が生まれ、その形成過程で46億年ほど前、地球が生まれたらしい。
 その拡がりが発生する以前から、拡がりを許容する空間がそこにあって「時間」がその拡がりを受け入れる為には、「時」がエネルギーとして、例えば、拡がりを創るか、吸い込む「力」として働かねば宇宙空間は考えられない。その要素・ファクター(FACTOR)も、名前がありますが、霊的というか、心魂的な姿のない存在というものばかり。生命(イノチ)と私たちが呼んでいるものは、このように宇宙の形のない存在、「宇宙力」と呼ぶしかないものです。そう思えるのです。その宇宙力が形態化したのが星々であり、地球は突出して具体的に、その星の表面に生物、何百万種を消長せしめています。私たち人類はその一つですね。「イノチ」生命の実相を捉えようとするなら、宇宙の彼方から地球生命界を眺めようとする「全体(ホリス)統合的(ティック)」立場が、この近代社会にとても大切だと考えています。

 大宇宙の星々が秋空にある夜景から、自然の中に自分が存在し、同時に自分の中に「自然」が存在すると意識できる自覚。このロマンを自分に語りかけて、生命(いのち)を宇宙力・宇宙全体力として理解しようとするだけで、「もったいない」とか、「ありがたい」という気持ちに向き合えるのではないでしょうか?

60号「尊い智慧は意識が運ぶ」


 吾々が与えられている意識は厳粛な宇宙生命を映すスクリーンであります。そこに深い智慧が運ばれてきますので、私たちは意識のスケールを大きく持つべきだと思っています。そのことに就いて、頭の中では書き連ねたい粗像が見えているのですが、夜空の星々が繋がって絵になり難い如く、なかなかに私ごとき者の筆では表現しきれず困ったことですがお付合い下さい。

 どんなに精密、精緻に仕上げられた機械でも、それは人間たちの作品であり、「生命」という体温は持てません。天候・気象の予測を数分、数十秒で仕上げるスーパーコンピューターでも、それは自然の衣の寸法を素早く測って天候の変化に、我々人間がどう対応するかの指針を予測させるのみであります。その瞬時の予測が、自然の荒れ狂う脅威を柔らげるということにはなりませんね。当然であります。
 概ね2000年を地球一周の時間とする巨量の海水は、超低速ながら地球の気象を生物たち全体にとって、その宇宙的合理性を保持できて、生きていけるように守る「宇宙服」ですが、この凄い力こそが地球生命群に対する慈悲であります。この有難さは、私たちに深い下座精神がなければ、とても理解できません。

 北極海の氷が、消失していることがテレビ画像で伝えられています。この北極海の水温こそが地球上のいわゆる七つの海の水を約2000年ほどかけて移動させる原動力となる「海水の巨大エンジンの貯水池」なのです。温暖化が怖いのはこの根拠によるのです。
 地球の全海水の量は、14億立方kmにちかいと計算されています。七つの海洋の平均深度は約3800mで、海の深さ、前掲の3800mほどのうち、海底から水深1000m程の水温は、約3~4℃の冷海水の「塊」で形成され、この冷水域の動きの供給源は底の浅い北極圏・シベリアでの降雨で、ここの貯水海から大西洋の深い海へと落水し、このエネルギーが源となって地球自転の慣性力と釣り合いながら南下し、南極大陸付近の冷水塊と合流し、インド洋から太平洋とを巡ると確かめられています。
 温暖化等で深海水温が温まると、その海水塊中に貯えられていたCO2が海水面から徐々に解放されることが科学的にも予想がつくと論議を呼んでいます。この地球の自転は、超々複雑系で科学的に調教を受けたコンピューターで計算が即刻可能であるとしても、入力に当たって変数の基本をどうするのかが決められないのでは、残念乍ら人類本来の目的、生命の本性実現に無駄な浪費になるだけかも知れませんね。

 以前から白熊が休む氷魂すら十分でないTV画像を観ています。氷が解けるとロシア、中国などは北極海航路で天然ガス、石油などの資源をヨーロッパに運搬するのに何百キロも距離が短縮できるし、その他大型観光船の運航で経費も節約できるし、漁業権についても各国の野心が燃えたつような話がありますが、北極海の生態系は微妙なバランスで成り立っていて、もしもタンカーなどから大量の油が流出したら大きな被害をもたらすでしょう。
 天然自然現象の変異で、海水面が数10cmの上昇でも埋没して住めなくなる島々、沿岸の住民に対する心配をするのでなく、海水面の上下問題も何も気にせず、只々、新しい北極海航路の占有権や、極めて豊富な漁業支配権に心が動いて、まるでブレーキの効かない車で走る暴走族のような欲望がぎらぎらした傾向に怖れを感じるのは私一人ではないでしょう。

 2014年々頭、アンパンマンの純粋思考の世界に浸ってみて、北極海航路の優先権の議論がとんでもない悲しみの「笑いのネタ」であることを冷静に振り返ってみませんか。私がアンパンマンに持つ強い安らぎは、その観音様のようにやさしい心づかいです。周辺への気くばり、悲しみへの同情、一切の虚飾をかなぐり捨てるようなトコロが、私の言う「宇宙への帰依」と重なり、この優しさこそ宇宙意識の「内証」ではないかと思っています。
 全生物は他種生命のために生命(いのち)を全うしています。僅か数十センチの海面上昇で生活の土地を追われるかも知れない何千何万の人達の悲しみを想像できず、欲望のままに進むことが、宇宙が創造した人間という生物の本性であってはならないと思うのです。地球生命を生きる吾々は、宇宙神の厳粛な生命の化身であるとする自覚こそ、人心、魂の本影であると思いたいのです。どうでしょうか、皆さん?

61号「入我我入(にゅうががにゅう)」(佛教の基となる一つの言葉)


 皆さん、どこかでお聴きになったことありませんか?この入我我入という言葉。
佛教の一節からの言葉ですが、人として生きて進歩し、成長して世間に役立つ人間になる為に仏法を学ぶのであれば、以下のような思いでお釈迦さんの「お骨」に祈りを込めて額(ぬか)づくのが正しい祈りの姿勢というものだという教えにこの言葉が使われています。短いお経ですが、そのお経さんは「舎利礼(しゃりらい)」と言います。
 「舎利」とはお骨のことで、お釈迦さまのお骨が入れられた壺を祀(まつ)り、そのお堂で自己の日々の精進を祈る姿こそ正(まさ)に「舎利礼」であります。スポーツでも、武道でも、又、ご奉仕・ヴォランティア活動にあっても、勿論、勉学にあっても、少しでも強く正しく行動して、高い精神・心で、それらの実践に臨むよう心掛け、その成果のお陰で自分を高め他人(ひと)さまにも喜んでもらえるようにするのが正しい心掛けだと教えられて大人になってきました。
 夫々に、自分を進歩させたい、偉くなりたいと努力するのでしょう。その際、大そう良く自分自身を育てる、進歩させるにあたっての正しい態度と言いますか、成果があがる祈りの姿勢が、佛教では、この「入我我入」の努力法という訳です。一段上の自分になり、そういう自分を作り上げたい、その為には、今、今日の自分を超えなければなりません。ここに『超える』というのはどういうことかと言いますと、例えば、モノを観るときは、全身を「観る」力として、そのことになり切り、聴く必要があるときは、全身を耳とし心として、相手と一体になって、即ち、自他一如、相手・自己が一体になって聴くのですねぇ。自己を超える、そして“相手さま”と一体になって行為する・・・これが入我我入の実像・・・という訳です。

 日々のニュースTVなど観ていますと、正に“生きていく”とは困難に出逢うということでもあります。多くは逃げられない運命の一齣ひとこま。逃げると、もっと困難な解決しにくいことに襲われるのが常で、曲りなりにも挑むほかありませんね。昔、小学校高学年の頃、戦争中でもあったので、大人たちに死ぬ気でぶち当たれ!とよく怒鳴られたことを思いだします。困難は自分を鍛えるものとして挑むべし、と先輩がたに教えられたものです。何回かぶちあたりながら祈りつつ、他者(・・)の(・)為(・)に(・)も(・)逃げられん――と、何とか誠心誠意――それこそ問題に入我我入の祈りでぶつかって行く中で、ほとんど多くは友人、知友の助けもあって、何とかなる場合が多いように思います。
 宇宙神と申しますか、とてもとても巨大な霊魂の柱とでもイメージできる「決意を促す・熱いもの」が何とも言えず静かな仏像のお顔と共に──有り難いことに──光のような『力』になって降りて来るような錯覚──が、ときたま苦しいときに有るのですなあ!それは強く祈るために自分自身をイメージで目醒めさせることによるのですが、私としては度胸が無いのでかえって、この「光」のようなものとの「入我我入」が、自分の得意業(わざ)でもある訳です。
 お経を唱え、自分自身の向上を「お釈迦さま」と一心同体になって祈り、精進させて下さい・・・とお願いし、一段と進歩して修行しますので、社会と人々に役立つ人間にならせて下さい、それに相応(ふさわ)しい力量をお授け下さいと、いう祈りの経文「舎利礼」の中の核心こそ、お釈迦さまと一体になっての行動をお願いする「入我我入」なのであろうと確信する次第です。
 勿論、同時に『もったいない。有難うございます』!!!と合掌を忘れないようにしています。これは現実的な、どこに居てもできる祈りのコツであろうと思っています。どうでしょう。入我我入の話、何かお役に立てましたでしょうか?素晴らしい進歩、進化を得る呪文として入我我入を記憶していただけるとうれしいです。

62号「佛教自然学 ― 生きる為の運転力」

 人間という地球在住の生物はまことに厄介な動物だ、と友人たちとの会合で話が持ち上がりました。考えてみますと、生態系(エコ・システム)のなかで、地球生物たち群居のなかで、特に家主の地球さまに対して奉仕活動など何もしていない動物です。そのことについての名文を友人がメモしていましたので披露しましょう。

 『猫はネズミの繁茂を抑え、微生物の巨大群居は相互に拮抗しながらこの地球に存在し、植物を育て、動物の腸に棲みついて彼らの摂取する食べ物の消化を四六時中助け、昆虫から地中・水中・地上のあらゆる生物の生活を支え、死骸の始末もキチンとして土壌に還し生命現象の展開を事実上受け持つ。小鳥たちは森林でさえずり、植物をその鳴き声で元気にする。科学者たちがその存在価値について、小鳥たちが鳴いてくれる建屋と全く声もないハウスをつくってテストしたところ、実際、小鳥の鳴き声でハウスの木々が活性化し、成長にかなり差が出たという情報を得た。肉食鳥たちは、森の鳥類の無制限・過剰な増殖に歯止めをかける。牛、山羊たち草食動物は、草々の次の繁茂のため、彼らを腸で発酵せしめ、微生物によってエネルギーの体内での取り出しを手伝ってもらう一方で、大地に微生物の巨群を養う。生態系におけるホモサピエンスの役割は、それでは何なのかと問えば、どう考えても適格な答えが出てこない。』

 私も、自ら進んで“人類とは何ぞや”なんて問い立てるほど深い意識を持つようになったのでは、勿論ありません。ただ、「ありがた屋」であったおふくろと父親が、共に、とても信心深い人たちであったので、四歳ぐらいから、夢物語りのように観音さまのお話や、お地蔵さまの優しい救いの実績を何となく聞き、朝夕の両親の「お経」「鐘の音」「線香の匂い」のなかで大きくなったように記憶しています。
 短いお経さん、観音経の文句を子守唄のように毎日、朝晩、耳にしていました。意味より、何よりリズムが良いので、今でも覚えています。節まわしをつけないと中々うまく唱えられませんが、こんな風です。『観世音(かんぜおん) 南無佛(なむぶつ) 与佛(よーぶつ) 有縁(うーえん) 佛法(ぶつほう) 僧(そう)縁(えん) 常(じょう)楽(らく)我(が)浄(じょう) 朝(ちょう)念(ねん) 観世音(かんぜおん) 暮(ぼ)念(ねん) 観世音(かんぜおん) 念々従心起(ねんねんじゅうしんき) 念々(ねんねん)不離(ふり)心(しん)』 勿論、丸っきり歌、演歌です。
 お線香の匂いと盆踊りのような節で耳に残っています。とんとことん、とんとんとことこ、とことことん、といった風なことで、唱えると言いますか、歌いますと、余計なことは忘れて節に酔いますねえ。人それぞれ、好き好きです。そういう聞くでもなし、憶えるでもなく、唱えるでもなしで、2(に)×(に)2(ん)=(が)4(し) 2(に)×(さ)3(ん)=(が)6(ろく) 2(に)×(し)4(が)=(は)8(ち)風に、脳の中でお経が踊っていたのでしょう。

 青年、成年、熟年と長ずるに従い数学・科学を教わるにつれ、人間、人生、自分を考究し、世情の万象を習うにつれて、どんな学問とも大きく矛盾することなく、科学とも平行し、佛教というか、お釈迦さまの文教内容に触れるたび毎に、大きく「ものごと」を洞察する支えになって、自分を育ててもらえた直接的な教えだったと思っています。
 40年ほど前、まだ40才台前半の頃、直感的な理解力を深めようと佛教教理、特に意図して勉強してきた般若心経に述べられている宇宙意識とでも表現できるこの大世界の根本的理法の解説と言える数々の真実義については、数冊の書籍から学ばせて頂いてきたことが今では私の大きな生きる指針となっていると打ち明けたいと思います。

 それは単に宗教的な枠組みの構造なんていう人間の文化臭いものではなく、大自然、宇宙を埋める星々を含む「いのち」を己の、自分の「生命(いのち)」として、そのなかへ、苦悩も、喜びも、勿論、生死の循環も投げ入れて、人間の宿命としての生死を看得せんとしていることが、「般若心経」という短いお経の中に埋め込まれている訳ですねえ!
 このお経は短いですが奥行きが深淵で、人間の単なる高尚で鋭い頭脳プレーだけでは把握できず、純粋な「洞察力」を動員して、無垢、無私、無欲に対応してその経文を感謝・感動で読み解く必要があると考えています。非常に興味深い量子物理学を、直感力を念じて解くヒントも経典のなかに秘められていると思えますので――私はそういう想いを乗せて、以後数回にわたってこの「生きる為の運転力」としての佛教自然学を精魂こめて皆さまにご披露させてもらえたら、と念じている次第です

63号「佛教自然学―生きるための運転力(Ⅱ)」


 今、私たちが生きている世界、世間は心の休まる暇のないもので、昔から四苦八苦と言われ悩ましく苦しいことが「当たり前」。何ごとも愚痴っても致し方のないことだらけ。2500年前も昔、お釈迦さまの生きておられた時も、今も、人の世は変わらず悩ましく、「赤」や「黄色」の信号灯だらけですが、死ぬまで頑張って生きるしか仕方ありません。「平家物語」じゃありませんが栄枯盛衰世のならいです。踏ん張って、己のため、他者のため、世の為生きるしかありません。と、まあ一応はこういうことなんですが、際(きわ)立って子供の頃から、知・情に秀でておられたお釈迦さまは、世情って、何故そんなに苦が多く、病や貧困に溢れるのか?何とか救えないものか?!と(史書によれば)今のネパール南部に勢力を張る釈迦族の皇太子という栄楽の地位と生活を捨てて、美しい妃も子供も捨てて29才の時「修行」に出られるのです。

 本題として追い求めたい『般若心経』という釈尊(お釈迦さま)の偉大な教えをまとめて説かれてあると信じられる教理解説に挑戦せねば、と心逸(はや)るものですから先を急がせて頂きます。地球上の生物生命界の始元細胞となって今日まで40億年ほど続く微生物の力量をお借りして、この地球環境整備・浄化に一石を投じ、この世のお役に、本気でたちたいと生きてきた四苦八苦(私個人的には四苦八苦ではなく、三十二苦(?))のトンネルをくぐって来て今、84才にして救われているという境地・心情からの「光源」で照らして、何か皆さまにお役に立てる解説になれかしと、必死の想いです。
 色々な考え、大きな予兆を得て出家なさることになった釈尊はいざ出家したものの、自身を導くよき「指導者」・実力ある師匠に出逢えなかったということです。また、よき修行仲間も見つけることができませんでした。古い文献の伝えるところによれば、父である釈迦族の王さまは密かに護衛の五人衆を派遣されていたのですが、彼らも、この常識外れの「苦行」に振り廻されるお釈迦さまを、真理追求の為の修行目的に変更させる手助けはできませんでした。只ただ、やせ細り骨皮筋衛門のようになって行く道程を歩くような「苦行」では『真理』を悟ることはできない!!と釈尊ご自身が悟られ、この無茶な苦行に終止符を打たれたのです。
 しかし、この6年間の無明と思はしき苦行の体験こそが、その後大きく拓ける「佛教」の「Big(ビッグ) Bang(バン)」であったと私は信じたいのです。この一見無意味に思える苦行こそが、今、私たちが重宝している佛教教理の真実義を詰めこんだような「お経」般若心経の内容を展開せしめた「種」であり、多分、お釈迦さまは、この時代に沸々(ふつふつ)と湧きあがり結晶化したと言ってよい「人生の苦の分類の図」を描かれたのではないでしょうか。
 あまり意味のない「苦行」を自覚されたお釈迦様は、その次の瞬間、宇宙から送られ自身のなかで整列した宇宙の言葉に、驚くべき真実が格納されていて、それが整備され偉大な宇宙教理・哲理として定着したことを自覚されました。この時、規範を人間界の言葉として力強く宇宙が示唆していると直感されたのでしょう。「宇宙意識」のポテンシャルが、整然と釈尊の内部で本当の「宇宙的自由」「宇宙意識に由来する自由」として躍動しました。苦の充ちているこの地上界で、人々が自由な心で生きて行く「極意」を人間の言葉に置き換えられたのです。
「教典の強烈な道徳的整列化」が釈尊の体内で充実成立していったのでしょう。それは「永遠の時間」を人の言葉として形を整えることを意味しました。即ち「経典の超スピード絵巻」のように釈尊の意識を回転させ、大衆をその意識=言葉の台風で圧倒されました。

 2500年を経て、その胎風は西洋科学的基礎、概念に深刻な修正を要求し、その変容によって21世紀の物理学的世界観も一変しました。これぞ人類の「意識革命」であると筆者は満面の笑みで、この傾向を歓迎しているのですが、人間世界の「業(ごう)」=生命論的無自覚・無反省の「我欲」性向は、なかなかに“平和を許さない熱”を冷ましません。
 私たちは、般若心経という「釈尊説法」「宇宙意識ポテンシャル」を本気で生きるため、脳の汚染を浄化する必要に迫られているのです。地球環境汚染の根源にある本当の汚染、即ち「脳」まで汚染されているかも?という自覚を持ち、「般若」の智慧で浄化する覚悟を「今」―2030年まで、地を這うような情念で持ち続け、その上で、決意の実践を目指さねばならないでしょう。測り切れない巨大な意識を宇宙につなげ乍ら!
皆さん…、何とか意識強化や霊性浄化という難題を強い心で始めませんか?!

64号「般若心経の核心」とは(他者の長所と生きること)


 環境改善・修復を生涯の仕事と決めて、ほんの一部ではありますが、微生物サマのお力を借りて、教わり、学んで参りました。「宇宙創造」の自然誌としての地球の浄化保全を目指しています。しかし、もちろん、壮大で深々としている「宇宙生命」の部分としての地球が相手ですから、巨大すぎる対象に、「まっすぐ」に自然に立ち向かうにあたって、ある「心得(こころえ)」──心に決めた“自分の立ち位置” ──として、常々「自分(・・)中心(・・)」に決めてはならないと言い聞かせている積りです。
 ちょっと、生意気な「言いかた」になりますが、その際に、一番大切なことは「宇宙と人間」を貫いている法則(摂理(せつり))の躍動を「今・自分」が気づくことができているのか?どうかな?という反省です。即ち、私たちは人類の文化としての知識──膨大な知の集積──ではなく、例えて言えば宇宙から来光する「いのち・生命(いのち)」の智慧を行動の基点・考えの基盤にして、見極めて得た答えに沿って「サッ」と行動できるか、あるいは、できているのか?どう瞬間瞬間に去来する視点からの回答を環境保全の「やり方」として直結して考えているか否か?という問い立てと、そのことによる強い確信のある回答に沿って行動しなければ、地球上の生物生存環境改善の技法とそこから必然する結果を予測し、最善の結果が行動として得られないと思うからであります。

 私ごとき個人がそれに関する一切合財の結果がすべて映画のように見えているわけではありません。しかも、人間が直接その是正をなし得ることはありませんので、その時の最良の方法の一つとして、私の場合は微生物──地球生命界の超ご先駆、先祖であると考えられる広く普遍的な活動をして頂ける微生物種を活用させて頂いているわけです。
 ものすごく楽しく安心できることは、そういうことを目指して環境修復とか、改善等の仕事をしてきて、極端に言えば、ほとんど失敗したことが無いに近いと思うのです。

 般若心経のお経さんのなかには智慧を働かせよ、宇宙の宝の法則「空」の実相こそ無限の智慧で、日々、生涯それを健全生活推進の杖としなさい──さすれば宇宙生命こそが人間・君たちをあらゆる星座、星々と同じ雄大な生命(いのち)として生涯を過ごさせること請け合いだ、というのですねえ。般若とは昔のインド地方の言葉で、正に“智慧”という単語ですから、「智慧」という「宇宙力の化身」こそが生命(いのち)の運転力であろうと強く信じています。
 この地球は「水の惑星」と呼ばれて久しいですが、この地球で生息する生命体群のすべては微生物サマの子孫で、太陽系の太陽エネルギーで代表されるエネルギーが「カプセル」化された無限数の微生物群そのものです。その働きこそが「空」の本体と信じます。具体的に生物形態を形成したとき、それは「色」という生命個性を持ったものになるのです。
 即ち、具体的な大気、水、動植物、一切が「空」の本体であり、「生きるということ」は、それらの諸々の存在の長所を引き出して宇宙エネルギーを代謝することに他(ほか)なりません。従って、生命体同志も、それぞれ、他者の長所を引き出して生きることを絶対的な原則とするのが正しいとされるのです。即ち、相互に相手の長所を生かすのが原則なのです。

 「知識」という人間界での「財」を身に付けると、その分だけ、本来あるべき人間の「自然というか、宇宙的直観」から得られる智慧から離れることになる──という危険があります。宇宙直観智?が「修行」「心がけ」によって身につけば、真実の見極めが「サッ」と行為できて、それが地球のため、他者のためになると言えるのでしょうが・・・、今という今も、他者の悪行、欠陥をあげつらって生きる焔(ほのお)で地球が黒煙にまみれていますねえ。

65号「如何なることも心骨まで削いで(そいで)眺めることから考えを進めたいもの」


 私は、今、ここに生きているが、生きている状態の一切合財を論理立て、科学的に証明することはできません。出来たとしても、それが、人類社会にとってどんな意義があるか説明することは不可能です。科学は当然、深い関心のある文化活動で、人間社会に有意義ですが、何故、生きているのか、どのように人間として対応することが大切なのか等々を、何もかも科学で追及することが正しく、善(よ)いこととは言えないところに「生物」としての行為と悩みがあります。この世界は生き続けなければならないし、死を覚悟する必要がなくてもあっても、どちらも死からまぬがれないのであるからこそ、日々が生死の祈りを必要としているのだと思うこと肝要(かんよう)。

 何はともあれ、生命(いのち)は地球上の生物群にとって、宇宙的な現象であり、そのなかでも自己・自分・己(オノレ)の生命・生活と宇宙的無限力と結び付けて生きているのは人間だけでありましょう。何かの「拍子」にかつて私は思ったのです、生命(いのち)は間違いなく『宇宙の創造力』と答える以外にないなあ!と。

 空に煌(きら)めく無数の星が夜の天空(てんくう)に無かったら、天空を意識し、宇宙を具体的に心に留めることはできないのではないでしょうか?この奇妙にも充実した「立体観」が人間の「生きる」という“感性”に刺激を与え、昼間の太陽、夜や早朝の朝焼けや深夜の御伽(おとぎ)噺(ばなし)に精神的・心理的な情感を確かなものに成長させました!それは「生殖」活性による個体内の変化に連動したものであるはずと教えられてから、一層、神秘的な尊厳に満ちたものとして心の奥深底で波打ち出したのではないかと気づいたのです。脳の中と、心のトキメキの連動から直感智慧を湧き立たせる「一種の生命力」の芯に、魂(たましい)を根づかせた、これが原因力ではなかったかと。

 今日の文明社会の恩恵に浴している地球上のほとんどの人間は、神にひれ伏した姿勢を見せているが、それは自然を破壊して得られる安楽な生活を正当化する道具に神を使っています。傍から観れば、どうもそのように見えます。宇宙摂理という唯一無二の宇宙生命発揚源への帰依(きえ)でなく、二元・二極の悲劇が今日の人間たちを巻き込んでいます。宇宙摂理と一体になれないことを反省しないといけません。

 私たちは「神」という名の自己弁護符を利用し続け、今も、その愚に気づいていません。大気・空気も自分たちの作品のように錯覚しているかのようです。魂で読み解く「環境」を自分の心に映していないので、自然を読み解く「思想」を持ち得てないまま、今日まで自然を汚してきました。本当の思想を持たぬ繁栄が招くものは混乱です!! 

 仏教経典の中に「涅槃(ねはん)」(ニルヴァーナ)という字・言葉があります。原語であるサンスクリットで言えば、それは「消す(吹き消す)」という意味です。涅槃は象形から、涅=水・太陽(光)、槃=樹木が遍(あまね)く、般(ひろ)く行き亘るさま――即ち、光と水が普く地球を覆(おお)い、樹々が遍く地球を埋め尽くしている―深く言い換えるとニルヴァーナ(涅槃)は、自己(自分)を消し去り、心でこの世界を観れば、すべては無差別=何の区別もなく、樹々と生き物が普(あまね)くそこにあって、光と水の動きが永遠に流れる『時間』を示唆(しさ)しているのみ。ただただ、不変・普遍にあるのは『時の流れ』のみだ!永遠に流れ続く「時」以外に不変のモノは皆無であることに気づくのではないか。

 それぞれ、目に見えない微生物群の存在と力でしか生きられない宇宙指図(さしず)の「生命論」の前に、お互いが地球動物であるという原点から、国益と国益の背反はお互いのどこかを消しあって、それぞれが他者の尊厳に下座し合って欲しいですねぇ。

66号「必要なことは人間・日本人としての目覚め」


 年齢を重ねていると、色々な人生劇場に出入りすることになりますが、よかれと思って尽くしても、それが届かぬ相手にも間々、出逢うことになります。がいして甲斐なき相手に当たったときの空虚さというものは、徐々に心の重荷になってしまいます。
 皆さんも、ご経験のことと思いますが、昨今、この大和の邦(くに)・日本でも「恥」を知る・・・という文化は喪失、際限のない戦略化された貪欲(どんよく)さが目立ち、自分の都合ばかりで国家・社会の──言わば、日本人の民族としての誇りというのか──プライドなんかという想念がまるで無い人たちに出逢うこともある。少なくとも、私にはそう思える人たちが往行していて、「俺は?さて自分は?私はどうなのか?」と振りかえることが増えましたねえ?!
 陽の当たっている時、自分の陰になって支えて下さる人々への想いを深く、熱く感謝し続けていただろうか? ・・・という反省もあり、改めて嘗て(かつて)老人だった亡き先輩・親たちに、たとえ今の一時(いっとき)でも「心から」合掌する気持ちを思い起こしているところです。今は亡き先輩の一人に信心深い人が居られたが、かの人が何気なくおっしゃったことばを改めてここに披露したいと思い立ちました。曰く(いわく)、『聞いただけでは道にあらず、通ってみて初めて道だ!』と。即ち(すなわち)、「諸行無常 真理不動」で、『大真理は厳然として僅か(わずか)の私情も許さない』のであります。
 一言でまとめたら、「不言実行 利他自律」とでも言うのでしょうか。子孫たち、将来世代の人たちの為に、強い直観力を活かして、無心、無欲で考えて行動すること肝要と思います。そうすることで、私たちは大自然の「生命(イノチ)」と一体になることが「具体的」にできると考えています。

 この時代になって、いよいよ烈しく日本人の「らしさ」が消されていく大きな元凶の一つは、やはり「自然でない」加工しすぎの食べ物の質が問われると思います。この地球上に棲む動物は、その種によって食べ物が違っています。食べものによって知らず知らず大変な影響を受けて日本列島在住の動物でないような人間が跋扈(ばっこ)しているように沢山の人々が発信しておられますが、その通りでしょう。強く同意したい気持ちです。即ち、文明は進歩したが、人間は肉体的にも、精神的にも明らかに「劣化」しましたなぁ。
  皆さんはいかが思われますか。今や、流通経済が整備されている我が国では、見かけは美しくとも食べものの中には、「イノチ」が入っていません。ドッグフード並みの餌のような食べ物では?という目を持つこと、ここが目覚めへの本当の力でしょう。

 人間として、特に日本人として自覚を持ちつつ、食べ物についても、行動規範につきましても、この世界に稀(まれ)な「日本文化」の地球上での「立ち位置」──長い世界文化史のなかでも、「利他(○○)を第一とする文化」を確立してきた先祖様たちの哲学を浴び、知らず知らずのうちに宇宙生命・太陽系から宇宙へと拡がる「思考型」の文化に温かく包まれて生きていることを感謝したいと思います。
 日々、不満も不平もあります。これまでに第二次世界大戦後の苦痛の道をたどって来ましたが、皆さん、(私は思うのですが)どの方角に惟い(おもい)を致しましても、この「大和の邦(くに)」は人間たちを芯から優しい「生きもの」に変化せしめる力量に満ちているように思います。「日本」という島国の「何とも言えない」優しい団結へのゆるやかなエネルギーがベースになって私たちは生かして頂いてます。このことを深く思い起こして、世紀の難局を皆で生きて参りたいと真剣に叫びたい気持ちです。
どうでしょう!皆さん、すばらしい日本人として宇宙哲学を探りつつ「夏の朝日」を何回か、強い気持ちで拝んでみませんか?!

67号「微生物サマへの祝杯」

 2015年10月5日でしたか、今年の「ノーベル賞」のうち医学生理学賞に決まったと発表のあった「大村 智」・北里大学特別栄誉教授(80)は、大地から人類に凄い益をもたらす「宝物」として、ある種の「微生物」を見つけられた。その細菌・放線菌のなかから、アフリカ大陸を中心に大変な難病とされていた病の治療に大変な効果がある薬が開発され、抗寄生虫薬「イベルメクチン」と名付けられた薬で、3億人もの人々がその恩恵に浴している━━とTVでも放映された。
 神奈川大学の上村大輔教授は、こういう天然微生物から丹念に採取して大きい世界貢献を果たすことは『砂山から砂金を探すような作業だ』と評された。当の受賞者に指名された大村先生自身は『うちのスタッフが優秀なんです』。『みんなで力をつけてやってきたんです』と、全く、肩に力が入っておられず、淡々と作業に従事、社会・人々に役立つことを旨として研究をしてこられた自然の笑顔が、何ともうれしい。亡き奥方への深い感謝の心情が大村先生を取り巻いて漂い、立場は全く異なるが同じく微生物サマに環境浄化の仕事をお願いしつつ生きてきた私自身(勿論(もちろん)、賞などもらえる研究には手も届いていないが)掌が痛くなる程の賞賛の拍手を贈りたいと、強く思っている。

 私は大村さんよりも5歳ほど年が上だが、とても、とても爽(さわ)やかで、尊い敬意と微生物という自然の『生き物』こそが、最も安全で尊い薬の生産者でもあり得ることを世界に宣説(せんせつ)して下さった功績を詳しく知り得た喜びに合掌感謝を捧(ささ)げたいと思っています。
 皆さま、如何(いかが)でしょうか?晴ればれしますねえ。同僚としての日本人の研究者が、難病に困り苦しんでおられる(主にアフリカの)人々を救ってこられた。地味ではあるが実に凄い研究成果に貢献された事実、『新しい薬剤創出』の基盤となる微生物の発見・活用への“道開き”━━何と安心のいく天然薬の恩恵の地上への散華か?!!

 『天然物を創薬につなげる研究は大きな可能性を秘めていると思う』とは薬用自然物の研究に詳しいファーマコンサルティング社長、福島弘明氏の言葉と新聞にあった。小生のように貧乏を売りものに微生物と長年つき合い、『在環境微生物』そのものを、環境浄化活動の原材料として活用してきた者のように、「平凡だが効果の強烈な」━━平凡だが「強か(したたか)」で有用なものに、命を捧げたいと思う貢献のしかた(・・・)もある。
 ただし、この時の副資材として忘れてならないのは多元素が共存する多種ミネラル粉材という資材を微生物群に供給し続けるという戦略である。この戦略は「信仰心」にまで浄め(きよめ)られていることで環境浄化の仕事が正常に機能するという信念であります。そう思って、私なりに有意の人々と地球に報謝の行(ぎょう)を続け、この地球に享(う)けた生命に報いたいと思っています。
ノーベル賞で話題になった微生物という生命体への小生なりの祝杯に代えた一筆でした。謝々!

68号「生命(いのち)の声をききわける日本文化」


 お芽出たい新春に、多面的な生命世界の転ずる価値の万華鏡を覗く(のぞく)ように冷静な眼で人間社会を観ると、困難な世界状況に冷水を浴びさせられる思いになりますねえ。この数年の世界情勢、特に欧州・中東での騒乱、殺戮(さつりく)にいたっては地獄絵であります。ニュース画像を観るにつけ、人間がなくても地球があるのに、どうしてもう少しづつでも控えめになろうと話し合えないものか?と思ってしまいます。
娑婆のことですから場所、場面によっては、そうでないことも多々あります。が、それでも静かに振り返ると、集団でそれぞれ、相手のことを慮る(おもんぱかる)ことを通して状況を推(おも)んみる。日本という国の住民の多くは、常々、原点に返って、臨機応変に無難・平和に、をモットーにしているようなところが認められるのではないでしょうか。
 その基本となっているのは、昔から築かれて来た──何か起きた時にも共に、一緒に運命を開こうとする──“お先にどうぞ!!”という精神的「勇気」と呼べる「気構え」ではないでしょうか!!-------私は強く、そう思っています。

 『宇宙が創造した『生命(いのち)』の声を“ききわける”』烈しい自問自答をへて仕上がった、日本文化の教育の必然的結果と言えるものなのかも知れません。誰でも、生まれたら、母親、年長者たちの教育的手助けを受けつつ成長するのが人間社会の一般であります。日本社会は特に「徳育」の大切さを教える流れが普通の家庭にも拡がってこの国が形成されてきたように思うのです。
 あの東北大震災の時、東京地下鉄などの混雑の中をそれぞれの利他精神で道を開け、人の通行を妨げず全体の都合のなかで「自個(・)」を実に見事に整えて行動する姿に、日本人の持つ深い社会性を世界の「有意の」人たちは確(しか)と見定めたのではなかったか。震災による不可避の混雑の中にあっても秩序を創造しつつ「他者と共に生きる」深い人間愛に基づいて行動できていた日本人とは?― 先般の震災時の映像が西欧の人々を驚かせたのではなかったでしょうか。もっと以前にも、日本人の心に深く沁(し)みいる「謙虚」で「奥深い」心の構造を看破(かんぱ)し、感動的に語られたのは「アインシュタイン博士」であります。

 1922年に日本を訪れた博士は、伊勢神宮初め日本古来の仏閣、古跡はもちろん、その山岳の美しくも尊く保全されている姿、及び河川を観て、故郷米国に帰る前に講演をされました。
「----世界の未来は進むだけ進み、その間、何度も地上での争いが繰り返されるだろうが、人間たちはそれらの戦いに疲れてくる時を経験する。──その時、人類は、まことの平和を求めて世界的な盟主の下に秩序をつくることになるだろう。ここに盟主として私が支持予告する主体は「武力や金力」をもつものではなく、地上のあらゆる国の歴史を凌駕する尊い主体でなくてはなりません。世界の文化はアジアに始まってアジアに還るだろう。その際の還るべき高峰は日本だ。我々は神に感謝する----!!我々に日本という「尊い国」を創ってくれたことを!」。

 吾々日本人は、アインシュタイン博士の演説の中に登場した国家民族の誇りと責務に目覚め──その為の義務、当為(なすべきこと)として、私たちは真摯に人類を含めた地球生命群の為に『真の日本』に目覚めなくては、明日の人類はない──と深く思うべきでありましょう。即ち、伝統ある文化を、正しく知り、そのことで宇宙の摂理に添い奉る(たてまつる)決意を固めなければなりますまい。その時、忘れてはならないことは、真に貴いのは宇宙生命であって日本人ではない──というこの事です。宇宙生命の真価を素直に体現する文化に生きる日本文化と、その担い手が貴いのである!という真実であり、この事を間違って認識する愚は絶対に宇宙神が許さない!ということであります。
盛事に驕(おご)らず、衰時に悲しむことなく宇宙神の指令に添い奉ること肝要との思いを深くしてこの項終わります。

69号「生命(命)の原理」は「宇宙の原則を顕(あらわ)している」


 「表題」を見て「何を?!わかったようなタイトルをつけて・・・」と思われるかもしれませんが、普通に生きて、喰べて、笑って、働いて居られる日常に、「生命―いのち」に向き合って人間らしく生きるとは?なんて神妙に考える機会はそう多くないでしょうから、まぁ、この場から退席せずお付き合い下さることを念じます。
小生のこの願いに添って頂きたいと思う第一の単純な根拠は、書き手である私が既に「四捨五入」すると90歳という爺で、多少ボケて来ていますが、未だ日々生活するに不自由がほとんどないと思えるほど健康に恵まれているばかりか、車の運転も絶妙に注意深くできている一人前(一応)の生活者である人間社会での先輩、と自負するからであります。

 日々鍛錬をして、日本人として・地球の人間として、この社会に「生命の場」をいただいたことに感謝できる「心地良さ」が心底から嬉しく、「何と、この宇宙星・・地球とは有難いのか」と、朝夕ご先祖に感謝の合掌をすることが「もったいない」と思えるからであります。山頂近くの高度から谷底に落ちて― 落とされて、反省し、家内にも苦労の山を登らせ、世間様にも温情を持って赦(ゆる)して戴きながら生きてこれたと、心底実感しているからです。「あっ、『生命(いのち)』って、やはり宇宙地球の恩恵を知る場なのだ!!」と氣づけること、その仕草こそが、生命を生きる原理なのだ!と思うほどに、やっと老いた…のだと思っています。
 
 宇宙規模という拡大空間は、「生命の原理」追跡の舞台、生きる意味が「居すわる」原理認識を吸収してもらえる「依りどころ」であると思うのです。一日に1回でも2回でも坐っても、立っていても、動いていても自分が宇宙空間に宙づりになっているように想定し、地表の自分をみようとイメージしてみると深く自分を観ることができるようになりはしないか!と思い、折に触れ努力をしてきたつもりです。冷静に観ると恥ずかしい処だらけで、我と我が身にうんざりしますが、「いい処もまま在るだろう…、と空から自己を客観視して自信を得ようとしています。
自分が生きている現実の「生命の原理」に就いて、昔、先輩と話す中で、次の4項目を書いてもらったことがあります。当たり前の事ばかりですが、
     ① 知らねばならぬものを知り、
     ② 絶たねばならぬものを絶ち、
     ③ 修めねばならぬものを修め、
     ④ 悟らねばならぬものを悟れ・・・でした。
 
 風呂に入っている時、立ち昇る湯気の一滴を「自分」と思い描いてみて下さい。そこで、「私」、「俺」の一滴を思い、人間として生まれた自分の存在を重ね、萬涙の感謝の世界を創造してみると「う~ん、なるほど」となりませんか? やってみて下さい!!生命を自己の意識で捉えようとできる――この人間という生きものを宇宙空間から眺めてみて、小さな小さな虫から、空に舞う鳥たち、野ネズミ…、人間たる動物の自分!!湯気の一粒にも満たぬ宇宙空間での「自己」・・・。
 
 世界の平和は、「人間の完成」によってのみ可能!と先人が言われたと習いまして、希望の言説のように思いましたが、90歳を前にみて、そのロマンに熱くなる青春が有り難いことに未だに胸に躍っています。人間・地球現象を見るにも、地球から宇宙を視るのではなく『生命原理の根源たる「宇宙」から地球・地上の生物群をみる視点こそ世界平和の根本絵図の在処(ありか)にほかならぬ』と、先祖・先輩たちも言い残しておられるんですなぁ。
 
 お先にどうぞ、と人ごみの流れの中でも、他者と自分を一線にして眺められて行動できる日本人に生まれている有難さ・・・。この線上に本当の世界平和と、宇宙の、人間たちへの希(のぞ)みを読みとれないものかと思うのです。

70号「宇宙は『一つの心の如きもの』」


 「宇宙は物質の機械仕掛けのようなものではなく、”一つの心“の如きものである」とは、物理学者アルバート・アインシュタイン博士の晩年の言葉です。
 小学校4年生の頃(今から75年ほど昔)大阪の四ツ橋という市電の駅近くに電気科学館が建ち、その中に目を見張るような近代設備、プラネタリウムが整備され、居ながらにして観る満天の星空に興奮し、宇宙への遠い憧れに心が躍りました。その時の心の高ぶりは、86になった今も、昨日のように蘇ります。人間とは不思議な生きものですねぇ。子供の頃の興奮が”1940年が2016年へ時間の経過を超えて“5分前の出来事のごとく蘇り、夜空に心が遊泳するんですねぇ。
 
 さて、我々の母船、地球が所属する太陽系宇宙のはじまりは約50億年の昔とか。この地球上の住人、人類は誕生以来、宇宙によって賦与された心によって宇宙を認識しつつ行動をする「生命体」であることが認知されつつあります。「私たち人間、一人ひとりは宇宙意識の端末であるので、「摂理」に添うことによってのみ健全たり得るわけですねぇ!人間(吾々)の心が「生かされてここで生きている」という思想を欠落させると、感謝も後始末の生活習慣も萎え、病人も多発し、社会の力、生命力なども凋落します。それは森林も激減、大洋すら汚染を避けられないからです。
地球環境問題の全般にわたる仕事を不充分ながら精一杯取り組んでまいりましたが、土壌・水質の保全などは、技術や技法とかいう取り組みのみでなく、何よりも心によってアプローチし、心底宇宙神に念じるという生命の視座からの仕事、段取りと実践進行を願わなければ上手くいかないと経験的にひしと実感してまいりました。表面的な知識と論理のみでは、本当の生存条件の再生は不可能と感じます。宇宙エネルギー(根源的生命力)が動き出し、生命体としての地球が動いてもらえるように念じての行動でこそ成功がみえてくると体験的に信じるに至っています。
 
 人類は、地球上を移り住んで遮二無二開発を試み、その住居と引き換えに多くの荒野を残しました。再生しがたい居住空間は今も拡がり続けていますが、私たちは宇宙論的価値の鏡をしっかり掴み直し、自己中心論を排除して「宇宙からみた」人間学を、心の行動として定める時、真摯に「胸に響く智慧」が降臨してくるのではないでしょうか。
それ自身超自然的である独特な直観によって捉えられる―あるいは、理性的思惟によって捉えられる究極的なものと定義できる「智慧」を、人類史上の必須教養として大人たちが次世代の若人たちに伝承する努力が、将来への重大な準備として人類に「宇宙」が示唆・要請している現実を私たちは悟らねばなりません。
 
 人間世界の底を流れる根本的な生命論的利他心とか、社会への貢献についての根本的な意義にかかわる革新を、人類としての重要事項として取り扱う「覚悟」、その根本的革新そのものに取り組むことでしか、明日の人類が正しく存在出来ないのではないのか、と危惧するものであります。見ようとしなければ、簡単なこと、重要なことも見過ごしてしまうのが人間です。現在、私たち人類が直面している文明の暗部というか、病的で闇にひそみ隠れている、われわれ人間が持つ自己中心的「心と行動」の影の部分を見つめること。
宇宙からの厳しい「声なき声」に気づき、地表の森・草から食料にいたる一切の供給を受けている自覚を感動で受けとめている人間が何人いるでしょうか。

 松尾芭蕉は、「人生は百代の過客にして行きかう人も又旅人なり」と言い、シェイクスピアは、「人生は歩き回る影法師。あわれな役者よ。舞台の上で大見栄を切っても、出場が終われば消えてしまう。」と言っています。
この地球の土地は誰のものでもなく、この地球の資源は誰のものでもない。地球の空気は誰のものでもない。それを借りているに過ぎません。その自覚こそが仏性です。一輪の花、砂の一粒に宇宙の心を観じませんか。

71号「良い姿勢がもたらす幸運を信じましょう」


 201610月に突然送付されてきたForbesという雑誌に人類進化の絵図が掲載されていました。この図をきっかけに、常々、興味があった人間(人類)の生物としての進化・心と健康の問題について書かせてもらおうと思った次第です。
 昔から、普段の仕事や歩行に際して取るべき「良き姿勢」が健康に良い影響を大きく持つと言い伝えられていますねえ!! 社会・国家が安定して平和に進化し、国民それぞれが健全に生活できる心得の一つとして、健康に過ごすことが大切と言えます。その最もシンプルな実践事項として、大地に垂直に姿勢を保って生活(仕事)を行うことが大切と先人たちに言われてきました。
 その絵図を参考に左の4コマはホモ・サピエンス(人類)の猿類からの進化の模式図です。猿類から→猿人(?)→そして→人類として進化を完成して行く姿を模しています。チンパンジーという少々荒っぽい気性の猿類と併存進化した「ボノボ」と名付けられている大人しい集団の猿類がアフリカ・コンゴで存在を確認され、進化の有様が現状を起点として科学的に観察が続けられていると報道(TVなどで)されていることは皆さんご承知のところでしょう。
 
 研究者たちの報告からすると、我々人類は多分、東アフリカ地域で進化したと考えてよく、地球自体の変遷(海水面の上昇)で海辺が侵入してきて、それまで地面を歩いていたものが、樹の枝に、日々、頻繁にぶら下がりつつ生活しないといけないような環境が迫り、一方で集団として海岸からそんなに遠く離れないで生活し、洞穴で安定した住居を確保しつつ、安全に種の保存に成功していた・・・と考えられ、手をつきながら時に完全二足歩行の習性を獲得し、前屈みの姿勢が自然条件の変遷で直立歩行が強制・確立され、岩絵を刻み描くほどに知能を充実していったと考えられています。
 
 重量の増える頭を支える首の力が、直立歩行と共に(その負担を)智能の急速な発展にまわし得ることとなって、人類としての大きな進化がここに確立することになり、人類の脳の急進歩が直立行から10万年ほどの間に、遂げられたと考えられます。
問題は、地球気象条件の故に整った二足歩行の完成から10万年足らずで驚異的に進化した頭脳の故に、驚くほど進歩を遂げた人類は、その頭脳プレーで獲た文化・文明の過度の利便追及で環境破壊を急速に進めました。わたしたちは、宇宙地球から受けた広大無辺の恩恵を忘れ、科学の追及で得た物質文明の利器を過度に求めるようになり始めている「今」になってはいないでしょうか? 
 ピンと立つことのできた姿勢から、やがて最右に示しました図のような姿勢の故に、病的状況を自ら招き始めてはいませんか? 老人の杞憂に過ぎるだけならよいのですが!
進化の道筋は遺伝子の突然変異という膨大な試行錯誤によって成立していると考えるのが今日の自然科学の成果のようであり、それは、生命体の日々の生活現象の成果に出てくる「ゆらぎ」のようなものによって説明できるとも言われています。
 
 われわれ、地球生物はそれぞれ異質な遺伝子を持ち、何ものにも替えられない多様性を持って生きているので、日々の生活の心情・習慣・感動といったような心の変動の微妙なものも、宇宙神の意図(?)と異なる違型的な振動を常々発するような行動パターンに傾き続けると、やがて退化のような傾向を呼び込む「多様性」の部分を発現するに至りはしないでしょうか? 
 頭で考えるだけでは、天与の──宇宙・地球環境の変化の情報に沿えるとは言い難いと思うのです。情緒を司る前頭葉を意識して日々の行為を感謝で工夫してゆかないと、どんどん痩せると言います。お互い声かけ合って頑張りましょう。

72号「生命現象の根っこは多元素ミネラル」


 夜になって美しい輝きを見せる星々。小さく見えるが、専門家によれば多くが地球より大きな「岩球」らしいのです。岩石の巨塊が遠くから見ると天空の星なのだそうです!
地球の表面にある“土”、山野に大木を支え、美しい林・森を背負う地球も、一言で、「バサッ」と表現すれば一握りの岩塊の如くでしょう。私たち人間、動物、植物、野菜など、全ての生命現象の“根っ子”は、こうした岩盤や土に覆われた岩石成分・・・即ちミネラルが受け皿であります。
 人間である我々は、今日のような文明・文化の「雑音」「雑色」「雑念」(?)の氾濫したなかでは、イノチ(生命)の受け皿とでも言うべき「地球表層」の姿から、生命の根源的受け皿が岩盤であった筈だと断想することは、日常あまりないことなのでは、と思われますが岩盤が含み持つあらゆる元素が、水の調整力の授けを得て、今日の生態系のあらゆる景観を形成しているのだろうなぁ!!…と想起できはしませんか?
 
 「モノの書物」によれば、植物のなかでも、ミネラル群をたっぷり貯えているものを食べ物として、気をつけて摂取していると、元気で長寿と言いますなあ!!こういう話をすると、世情では、すぐに科学的根拠があるのかどうか?!などと、突っ込まれる人がおられますが、余計な時の浪費になる場合もありますから、「ふーん、そうなの?!」くらいにして、あと、ご自分で図書館ででもチェックするとよろしいかも。
また、智恵の切り売りのようで、少々、気もひけますが「ミネラルをタップリ含んだ作物」は実に長生きです。松の樹、杉、桧など、植物のなかでも、ミネラルの多いものは長生きですねえ!!・・・促成栽培のように、昨日、種を播いたら、一週間で食べられる――というのは長持ちしません。
 私らの若い時に、繊維の多いものは、ミネラルがたっぷりと先人に教わりました。栄養価の高い、自然栽培の上等の“ほうれん草”でも、乾燥して、もむと粉になります。「よもぎ」をとって乾燥して、揉んでみると綿のようになります。粉になりません。「よもぎ」は、大そう繊維が多く、ほうれん草よりは“長命”(?)で、その繊維を形成する体構造のために、沢山の連続した細胞を必要とし、その構造を強くするため、ほうれん草の何十倍もミネラルを取り込んで繊維を補強していると言います。「ごぼう」の繊維は大そう強靭で畑から引き抜いて、1か月くらい放置しておいても、「土に戻す」と、また葉が出てきますねえ。大根にはそういう再生力はありません。水分の多い作物は繊維が微少で、ごぼうのような訳には参りませんね!
 
 世界が不安定になっていますが、一喜一憂して右往左往し、自分たち夫々の「重心」が揺らいではいけません。大地の植生群落が示す如く、私たちも丹田に重心を置いて、国家が本当に「多様なミネラル」となるべき重心の座った戦略を取るとすると、一体それは何なのか?!。吾々レベルでは何についての覚悟と思えば良いのか。地球人とは?その際の決意とは?「やる気」のエンジンとは?冷静に皆で考えてみてはどうでしょうねぇ!
 日々の食事をバランスに特に気くばりして、元気で、社会・国家のために、チョットづつでも本気に、祈りを込めて、利他心に満ちた日本人として、地球人として、それぞれの友人として、やる気のエンジンに油をさして、お互いのため、地球・宇宙を意識に留めつつ健康に注意し、元気を神仏の恩恵と感謝して、微生物サマと一緒に!!と思って参りましょう。

73号「神経伝達物質セロトニンの妙技と落ち着きの神技」


皆さん、こんにちは!!
2017318日に()鶴田商会の創立70周年記念パーティが盛大に爽やかに持たれました。小生も老齢に免じてご招待を受け出席の栄に浴しました。「見上げてごらん。夜の星を~」と坂本九ちゃんの名高い歌がありますが、記念の催しが盛大に進むにつれて70周年記念パーティの「陽」がさして、(もや)が晴れるように段々と心を明るく照らし始めるのを意識した!―小生の場合、今年中に87歳を迎えるのですが、地球生物の一匹として、鶴田商会さんと何か古い縁起の精でエッセイを書く立場を受けることになりまして18年目。多くのお得意様との文字の縁を、この通信を通して重ねさせていただきました。
 時間・日時は宇宙の価値で、その目印でもあろうかと思います。同時に私たち動物が住む「大地」は、地球様の肌であります。私たちは何も創ることはできません。生命(いのち)の存立、時の推移をこの銀河系の(伝達物質)「セロトニン」を脳内にいただいて、只々、私たち動物・人間を含む全生命は「時間」と価値という海-哲学的実存―に浮いているだけであります。滅茶、不思議!
 
 70周年記念会と言いますが、70年は50年ではありませんので、それは長い時間の“あいだ”に「一回だけ」という機会であり、もう永遠に二度とは会えない「時の十字路」であります。こういう「時」の交差点を人間は頭脳作用で意識できるようで、――ただただ、宇宙によって「そのように」創られて、我々の誰もが「ふと、意識」できるわけであります。
 この「思い」≒「惟い」(おもい)と関わる脳内、人類の脳構造における神経伝達物質=セロトニン(人間たちの付けた名称)は、精神状態のバランスを保ち、感情の暴走ブレーキであり、印象深い情報や必要な情報を記憶させ不安な情報が記憶されないよう取捨選択すると言われます。
 これは私の独りよがりかもしれませんが、小魚や卵、肉、乳成分などの蛋白質やカルシウムを、気をつけて摂っていたり、朝日を浴びるとセロトニンが増え「いらいら」せず、時にあたって、宇宙時間や星の輝きにロマンを感じ、深呼吸も思いつくのだと思います。戦中の爆発音の迫真の悲壮さを忘れたわけではありませんが、星の「またたき」をふと思うことの利益(メリット)は生活の中でのストレス解消のエネルギー獲得の「コツ」であります。
 
 何周年記念、卒業式の思い出や誕生日などの区切りを祝ったりするのは、時間≒宇宙の運行、生死の循環などと言う宇宙や地球という壮大な「本質的実在」に気づく道標に他なりません。これは人間に特有の徳目向上、道義・道徳の意識による測量の機会であります。この惟い=習慣として感動とか感謝は――普段、忘れている親や友人への「うるわしい惟い=思い」に触れる心の栄養摂取ですなあ! 
 皆さん、どうです?そう思い、訓練だと思って、その都度セロトニン栄養を考えて、より健康に生活を続けようではありませんか!!

74号「肥りすぎの知識への警鐘-1」


平井孝志先生の32年前の原稿に接し、進歩とは何かと思われました。
・・・・・・
 20世紀はアメリカ合衆国が世界文明の枠組みをつくる時代であった。大量生産・大量消費、経済成長こそが美徳と信じた社会が歴史に登場し、人類がはじめて宇宙空間から地球を眺めた世紀で、生態系の砂を噛むような損傷におののいている時代でもある。にもかかわらず、全世界が地球を犠牲にしつつ米国のように豊かになりたいと願い、人間中心のあらゆる手段を活用しようとしている時代である。モノと、モノを取り扱う知識は氾濫した。だが、心の健康は大量化していない。それどころか、「理屈抜きに尊ばねばならない聖なる領域」を人間の心から徐々に締め出した感が強い。
 
 人間は「信じる」という心の所作を持てないと、安定して生活を続けることは不可能な生物であろう。過去の歴史の、どの一頁を見ても、聖(・)なる(・・)もの(・・)や、本来の思いやり、「愛」や「祈念」に支えられない知識は必ず滅びていることが知れる。ましてや、現代社会に増殖し続ける肥大化の知識が地球の明日を拓くとは到底考えられない。              
 知識の肥大化で押し縮められた心を、豊かな感性に甦らせ、そのことで得られる共感を、社会・生活の励みに高め合い、日々のささいな時聞を縫って、常に新しい・永遠に枯れることのない価値に憧れる魂を呼び醒さなければなるまい。当たり前のことに感謝できる人格を求めて目己の内部を掘り進めていくことこそ、偉大な生きぎまを育てる「堆肥」になることを深く信ずべきではなかろうか。そうした日常生活を、一塗り、又、一塗りして色を濃くしていくことで、やがて必ず成長を遂げることになる自分を信じることは、本当に大切なことと思うのである。
 
 宇宙エネルギーの、ほんの特異な形態として生命を現象しているのが吾々地球型生物である限り、量子的には、一人ひとりの一挙一動が実は宇宙の一意的支配に影響を持つものであるとしか言いようがない。一言一動はいつか波動量子エネルギーとして「自分」に帰ってくることを知らねばなるまい。だからこそ、病や苦難から人を立ち上がらせる生命力みなぎる情感、平凡だが感動を呼ぶ思いやりや努力、それらを支持する人々の拍手が減退しては、人間の社会は砂漠化する。
 私たちの誰も、自分の肉体、自分の知能、運動力、記億力を創ったものはない。誰も光のエネルギ-を生産したわけではない。水を作った人はいない。何もかも、生命生存の根源として時間を超えて存在している。「生命」は地球環境を作ってくれている自然の力によってのみ(・・)守られており、それは生き物を尺度にして図られるのが本筋で、それが智慧というものではないだろうか。環境破壊を伴なう技術・それを支える知識は本当に進歩と呼ぶに価するかどうか疑問である。環境の損傷で損なわれつつあるのは我々自身である。私たちは消化器官や肺という「環境を体内に抱えた」生き物である事実を想い起こしてみよう。科学と言い、技術と言うも、それらが宇宙自然の摂理に活かされることでのみ有用であるに過ぎない。
 
 静かに観点を定めてみれば、どんなに優れた人であっても、それがその人のものではなくほんのささいな、そして特異な現象のいたずらにしかすぎないことがわかる。そうなれば、大自然が、自分や他人(ひと)に、何を求めて生命現象をゆだねているのか、ということに何らかの感慨を持つ生活が自分の中に登場してくる。そうなるはず、と思うのである。こういう想いが知慧に至るパイロットなのではないだろうか。

75号「肥りすぎの知識への警鐘-2(1986年記)」

 考えてみると科学・カガク・カガクテキ・・・と、今日ほど自然科学の要素が日常の生活に入り込んでいる時代は、これまでの歴史になかったし、科学の方法論は一般の人々の社会活動や日常生活のプロセスでごく自然に使うようになってきている。
 
 何でも「損と得」で割り切って、欲しい惜しいだけの動機でしか動かない人たちが小集団の指導的立場に立っているケースだって珍しいことではない世相である。うまく行きそうなことは「自分の力量」のせいにし、結果が不良に見えてくると、すべてその原因は自分以外の者たちの「愚行」となし、そのことについての罪悪感が微塵もないのが特徴である。その理由づけのためにあらゆる知識が動員される。
 肥大化する知識は、システムとして管理されなければ利用がむつかしく、必然的にある部分は統括支配化へ向かい、官僚的構造が巨大化しやすい。しかもその組織には腐敗が巣食うであろう。そういう腐敗は集団的であり、知識とか、知性とかいうもの以外に、本来、人が人らしくある為の絶対的条件である「罪の意識」と「感謝の心」が、その集団的友配欲の中では消滅しやすいことから生成されるものである。自己中心の集団的支配を得るために手段を超えて「知識」が動員され、自己拘束の精神橋造が失われているため、合法だけを頼りとする争いごとが社会に一般化し、人間の数だけ争いごとが複雑化していく可能性がある。
 
 現代社会にはびこる「本能までこわれかけた狂った動物」のような人間が発散する暗い影響力をどこまで制御できるかは重大な問題である。彼らに「真理を瞬間的に感得する歓喜」などと言えば、こちらが狂っているとでも言いたげな表情をするに違いない。歓びは、元来、人間の知性が用意できるあらゆる言葉を超えている。理性とか知性とかいうもので為される合理的な説明が遮(さえぎ)られた領域のものであろう。それこそ宇宙と交信できる霊性とか、聖なる波動とかしか言いようのない。ヒトの魂が発する電光による「シビレ」のようなものとしか言えまい。
 吾々は絶え間ない争いの本姓を見据え、有意義な生存とは何か、又、永遠・無始無終の生命を、何人にも必ず訪れる「死」というものの境界に思いを馳せて、得られる感慨に照らして語りださねばならない。現状について批評的にばかりものを言いながら、自分だけを安全な目先の利害で優位に立とうと頭をめぐらせるのでなく、萬古不易の価値について、遠い昔から語り継がれ.いまなお新鮮でありうる感慨について、科学の時代にふさわしい表現と型を選んで「語り出し」、実践の手段にとりかからねばならない。

 知識はいわば脂肪のようなものであろう。知慧の火で燃焼する素材に過ぎない。正しく脂防が燃えた時、エネルギーは大きく、燃焼された大気は大空に向かって「絶対自由」を満喫するに違ない。正しく燃えない時は肥満を増し、組織は圧迫され、身体は脆弱な肉塊と化す。科学的知識の誤った活用のため、今や損なわれつつある自然に我々の心は痛むのである。
 色々と想い、語り出してきたが、とりあえず『知識が増大することで必ず(・・)理解が深められるという単純で知的な思い込みは、ある種の錯覚であるにすぎない』ということは知っておきたいものと恩う。何となれば、摂理に深く根ざすことのない知識を土台とする主張は、それ自体が世界の混乱の原因になり得るからに外ならないからである。

76号「世間法から如来法へ」          

 社会生活を向上させるために、倫理だとか、道徳が必ず言われてきました。しかし、そのいずれも具体的生活を超えた大自然大宇宙のイノチのエネルギーと申しますか、摂理の力への畏敬、心からの感謝の意識がなければ、本当の倫理として定まることはないと言えましょう。
 科学的・技術的成果、現代の知見の豊富さは世間法の世界ですが、その成果から無数に提供される知識を貫く不可思議な大自然の営み、イノチの秘密に気づかなければ、文明も文化も意味を失うのではないかとしみじみ思うのであります。そういう高次の意識へのジャンプを可能にするのは、子供の頃からの「(しつけ)」教育かと、仕事に関わりながら思うのです。考えてみれば、家庭の「しつけ」は、開けた扉を閉じるとか、脱いだ下駄や草履などを揃えて部屋に入る、老人に道をゆずる、食事の後片付けをキチッとするとか、寝る時に脱いだ下着をキチッと揃えるとか、読んだ新聞はキチッとたたんで後の人が読みやすくしておくとか、・・・枚挙にいとまのないほどの「後始末の作業」への徹底ではなかったでしょうか。
 そういうところから周囲への思いやりだとか、自分がなすべきことなど、難しく言えば環境倫理だの、道徳感覚が養われてくるように思えるのです。躾がしっかり教育されておれば、ひとりでに小さな生命、トンボや蝶の飛び交う環境への再認識が大人になる頃から熟成してくると信じます。それは自分たち人間にとってはもちろん、地球にとってもかけがえのないものだと理解するに至るのではないでしょうか。
 
 今日、私たちは世界の距離と時間を短くした時代に生きています。宇宙が与えた地球の系でない時間座標で生活し、なおも、より短絡された時間系の創出に努力を続けています。ですが、生態系の循環は宇宙地球時間で巡っているわけです。有機物などが植物→動物→微生物→無機物→微生物→動物・・・とめぐるプロセスでは、人間の時間の系を主張することを控えねばなりません。健全な環境は地球系時間で熟成されるので、人間の計算づくの利便合理的システムの価値観による「後始末の作業」に関してはあてになりません。ここでは如来(宇宙)法が最優先であり、それ以外のものは排除してかからねばなりません。
 宇宙地球環境の創造の歴史からも、私たちは土や水に対して徹底した作法を尽くすにはどうすればよいのか、という視点から技術を考えるのでなければならないと確信します。自然保護とか、自然に優しいなどと言うのは、いまだ人間中心の考えで行動している人間たちがほとんどだ、ということの(あかし)とも言えます。
 
 この地球上というのか、自然界というのか、そこでは元来、勝者も敗者も、敵などというものはないのであり、そこに溶け込んでいくのには、人間の知恵を誇示するような分別に満ちた価値観は捨てて、宇宙創源の意識になり切ろうとする祈りが大切になってきます。
 地球上の全文明・文化のお蔭で私達人類が一緒に一つのイノチを生きているという視界の開けた所見をもつことができるようになりましたが、それは、そういうものを通して私たちの魂が磨かれて高次元の気づき(・・・)を獲得し、魂の映像としてのビジョンの故に意識を宇宙のはてに感謝でつなぐことができる―――そういうことのために異常に発達した頭脳をいただいているのだ、という想いを馳せずして、どんな価値観も意味を失うと考えてよいと思います。
 地球上の一切の景観、生物の営み、いわゆる資源の一切はこの大目的のために宇宙が用意してくださった価値そのものと考えられるわけです。だからこそ、一木一草に無駄のあるはずがなく、それぞれが私たちと魂や意識をわけ合っている価値のパックと実感できるのではないでしょうか。

1992年京都フォーラム「共生と循環の思想を求めて」講演集より抜粋

77号「土のいのち」「水のいのち」(昭和55年記)

 私たち日本人の多くは、実のところ、水の恩恵を通常意識しないほどに受けているので祖先から集積してきた洪水の恐ろしさ、治水の文化、山水の造園哲学と技術…等々に関する智慧も、最近は、その清らかな流れへの憧れと、強く高い堤防構築の技術、架橋技術以外に深い関心が示されないようになってしまったようです。
 今や、水は水道の蛇口から一ひねりで得られ、1回の用便に1016リットルもの清水が消費される生活様式に抵抗を感じないというのが実情でしょう。しかし人間が用いる精いっぱいの技術による貯水は、いわば一時しのぎであるだけで、生物を養う水の総量を常に用意してくれる一大貯留タンクは大地です。川や湖は、ほんの上着にすぎません。
 山があり、岩場があり、森林があり、田圃があり、その下にすべての土があり、その土と緑こそが水を徐々に必要なときに供給してくれる貯留槽であることを、そして、だからこそ、大地が、緑が、何を意味するのかということをお考えになったことがありましょうか。
 
 国土の70%が山地の我が国が水に恵まれているのは、冬の豪雪と四季を通じての気象変化がもたらす雨ですが、もしそれらを貯留する膨大な山間の森林、それこそ無数の葉からこぼれる慈雨、水滴を深く表土に吸い込み、複雑な岩石群の割れ目から地下へ浸透せしめて、徐々にほんとうに徐々に間断なく吐き出してくれる森林の下や田園の下に広がる大地のお陰がなければ、川の水は限られた期間だけのものとなり、何百日もの干ばつから逃れ、生き延びることは到底不可能であったはずなのです。
 その働き故に山々は砂漠化から守られ、地上の多様性資源が育てられ、その保護の下に私たちの今日があるといえるわけです。肥沃な土壌、おびただしい微生物群、複雑な造山運動の結果、地下に配置された多元素の岩や砂粒の層が、移動する汚濁水処理の主役であったことを特記しないわけにはまいりません。水は化学反応のベースであり得ても自己浄化の力はありません。大気汚染の原因となる物質も大地に降って浄化され、これらの諸要素の総合的浄化作用の世話にならないわけに参りません。大地こそが水と大気の汚濁浄化の主役であるわけです。「土のいのち」と「水のいのち」は異音同義の命題にほかなりません。
 東京や大阪のような人口集中地での下水処理場が消費している電力は、厖大な国費を投じて建設された幾つものダムが提供する発電能力を完全に帳消しにしてしまうに十分なスケールなのです。昔はあれだけ大量の下肥を撒きながら、川の水は三尺流れて飲料可能であったのに、下水処理場ができて、汚水管理が行き届いていると称せられる今日の川が容易に魚を養い得ないのはどういうことなのでしょうか。

 大自然に対し、人間の技術を行使するにあたって私たちは何かを見失っていたのではないでしょうか。大地は生きている。水は生きている。生きているものに対する完全な人工的技術というものはあり得ない。データはある意味で、いかに死んだものであるのか、を知ろうとする謙虚さに立たないならば、人造・人工のものは自然に対しては不確実で、いじればいじるほど、その技術は自然との矛盾の幅を広げるでしょう。「処理」をみて、「浄化」を見ない、というのか、「樹をみて土を見ぬ」人間の心の浅薄さが反省されぬわけにはまいりますまい。処理につぐ処理で、国土を薬品漬けにするための難しい理論と装置が科学的とされてきた時代は終焉の舞台に乗せなければならない時期にさしかかったのではありますまいか。
 植物、動物、人間の健康度は、すべて土中のあらゆる要素に精密にリンクされています。食用に供する物を創出する最大の母体である土が病む時、確実にわれわれは、そしてわれわれの子孫は病むことになる事はあまりに確かなことです。

昭和55年(1980年)「土のいのち」より抜粋


78号「宇宙意識如意棒論-1」 (1999年脱稿)

 人間が目に見えて自然を破壊し出すまで、地球上には無駄なことはひとつもなかった。弱肉強食がまかり通る世界ではあっても、強者は自分にとって必要以上のものを殺めることはなかった。動物の死骸や糞、落ち葉などは微生物の働きによって、長い時間をかけて土に同化していった。現代社会が不燃ごみを強制的に埋め立ててしまうように、土とは異質な状態のままで、無理矢理同化させようとすることは決してなかった。
 
 宇宙は地球を誕生させ、そこに生態系を生み出したときから、変わることなくそういうことをやってこられたのである。この力の流れが摂理と呼ぶものの正体である。ところが人間は、そのように宇宙のやってこられたことに反する行為を繰り返したあげく、地球の危機といわれる時代に追い詰められることとなった。今のままでは地球は大変なことになるぞ、という警鐘は、私が改めて持ち出すまでもない。しかしそれを防ごうとして人間が頼っているのは、なおもテクノロジーである。浄水の急速濾過という方法も、テクノロジーですべてを解決できるという人間の慢心が生みだした手法である。
 
 人間社会は、テクノロジー一辺倒で招いた状況から脱出するのにも、又テクノロジーに頼ろうという愚かなことを繰り返そうとしている。もっと違う考え方、方法があるはずだ。そう思ったとき、私は自分が子供だった数十年も前、西遊記の中で孫悟空が持っている「如意棒」を、是が非でも手にしたいものだと渇望していた時代があったことを思いだした。
 地球上に初めて生物が誕生したときの状況。水とミネラルと微生物。この三つこそ人類 を救う「如意棒」ではないか。そう考えると、私は確かに自分が「如意棒」のツカを握っていると感じるようになった。

 現代は、科学の無力さを知らされるような出来事に満ち満ちている。優秀な研究者や技術者の方々のおかげで、学問もテクノロジーも発展した。ところが、量子力学がここまで発展し、むずかしい数式、方程式が解けるようになったからといって、私たちの環境がよくなったか、心が豊かになったかというと、何ひとつ良くなってはいない。
 
 それは研究者の多くに、研究成果が出せるのも、宇宙の力でやらせていただいているか らである、という謙虚な認識が少ないからであろうと私は考えている。このように認識することを、私は「宇宙への意識」と呼んでいるが、『そのような科学的成果が出せたのは、自分が優秀だからである。したがって、自分一人の手柄である』、などという馬鹿げたことを考えているから、いっこうに環境もよくならないし、心も豊かにならないのだ。
  「三人寄れば文殊の知恵」と言われるように、仲間が協力しあってこそより良いものができる。一人だけでやろうとしたり、先達の学恩や協力者のおかげがあるのに、自分だけの手柄だと独り占めにしようとするところに、まず無理があるのだ。

 「如意棒」のツカを握っていても、孫悟空ではない自分には独力で振り回すことなどできない。一緒になってツカを握ってくださる人が必要である。それも、自分が主役でその他の人が脇役で握るのではない、という認識が必要である。自分のために、などと考えないのはむろんのこと、他の人が一緒に握ってくださるお陰でツカを握ることができるのであり、他の人は、自分やその他の人のお陰で握ることができるのだと認識することが重要である。その時、私たちは初めて「如意棒」を自在に振り回すことができ、やがて「如意棒」が持つ威力を発揮し始めるのを知るだろう。

エリオット君79号「いまのそのまま」こそが自分
この宇宙がいまのような形態に進化する前、その始元となる時点が始まる前まで、そこに存在した空間を、「意識空間」と呼びたいと思ったのは、1980年頃のことである。
地球上に展開されている生態系を構成している何百万種にもおよぶ生き物の織り成すドラマ。「生命の樹」と呼ばれる生態系の世界から、宇宙空間に繰り広げられている星々、星雲、恒星や惑星まで、みんなこれ生命なのだと先人たちが伝え、教えとして残してくれている。 それが土台となっていたことはいうまでもない。
追いつめられた焼土を体験して大人になった自分が持つようになった視点がある。「プラネタリウム視点」というのがそれだ。はるか8.7光年も離れたシリウス星の山上から地球を俯瞰しているような、もっと宇宙の奥まった部屋から地球を観る「自在の眼」が持つ視点であり、視野であると強くいいたい気持ちである。そしてそこから自分を観る。

戦後の極度の食糧難。住む家もなく、ほとんどの人が譲りあって同居した時代---食うや食わずのとき、多くの人たちは「気兼ねしながら痛みを堪え、困難・苦しみ・貧困の中で幸せ感、うれしいーっと目頭が熱くなるような時間を味わえることこそが幸福の本質なんだ」と本気で思ったり、語りあったりしたものだった。 私は人々の悲しみや痛みが、生活者としての人間の心をおたがいが捉えあって、震える思いで受け止めた青春の時を体験した。その時の必死の思いが、いまもときおり右脳に鮮やかに去来する。
しかし意識の発信台を遠くオリオン星座に置いて、この地上の「自分」の生存とその生存条件をよく見ると、そういう具体的生活現象は、宇宙一切によって導かれた必然と見て取れないことはない。 宇宙神の演出で俺は地球で生きているんだ。そう思えば生命に感動だ。生かされて生きるすべてを、いうならば、いつも全部宇宙力に直結させて考えることができる。そう直感できると思ったらうれしくなった。「いまのそのまま」こそが自分なのだから。
初めから自分はこうだと決めないでかかる、という意味での無私の自己認識、すなわち宇宙の深奥に魂を走らせ、一瞬にして辿ることのできる定点から、瞬間的に自分を見下ろして観る心の原動機を、あっさりと宇宙意識だと概念することが大切であると思う。この意識で宇宙根源力と自分をつなぐことが、まさに禅でいうところの啐啄(そつたく)同時の原形というべきではないのか。瞬時にして永遠の存在=宇宙生命、意識の空間の無限の拡がりに満ちた想いになる。宇宙意識との合流・合一の平井流パターンである。
宇宙法則に添った意識力は、宇宙でもっともおおいなるものと認識し得るといえまいか。
われわれは宇宙意識との啐啄が達せられ、無限に正しい自由を発揮できるように自己を整えるため、真剣に師を求めて修行するとか、常々訓練を心がけるというふうな、なんらかの実践的学びというか、練磨を継続することを、日々宇宙から求められていると思惟するのが、正しく合理的な考えといえる。
すなわち宇宙の意識と啐硺することで、自己の意識は力となり、形となり、正しい創造力として現われるからである。宇宙の自発性と啐啄できた意識こそが現世における (すなわち地球的には) 如意棒なのだというのが筆者の信条である。これこそは宇宙の内証が自己に転写されたときの「自己」というべきものであろう。世情的にいえば、滅私の気概というのだろうか。
1999年脱稿「宇宙意識如意棒論」より)

79号「いまのそのまま」こそが自分

1999年脱稿「宇宙意識如意棒論」より)

 この宇宙がいまのような形態に進化する前、その始元となる時点が始まる前まで、そこに存在した空間を、「意識空間」と呼びたいと思ったのは、1980年頃のことである。
 地球上に展開されている生態系を構成している何百万種にもおよぶ生き物の織り成すドラマ。「生命の樹」と呼ばれる生態系の世界から、宇宙空間に繰り広げられている星々、星雲、恒星や惑星まで、みんなこれ生命なのだと先人たちが伝え、教えとして残してくれている。 それが土台となっていたことはいうまでもない。

 追いつめられた焼土を体験して大人になった自分が持つようになった視点がある。「プラネタリウム視点」というのがそれだ。はるか8.7光年も離れたシリウス星の山上から地球を俯瞰しているような、もっと宇宙の奥まった部屋から地球を観る「自在の眼」が持つ視点であり、視野であると強くいいたい気持ちである。そしてそこから自分を観る。

 戦後の極度の食糧難。住む家もなく、ほとんどの人が譲りあって同居した時代---食うや食わずのとき、多くの人たちは「気兼ねしながら痛みを堪え、困難・苦しみ・貧困の中で幸せ感、うれしいーっと目頭が熱くなるような時間を味わえることこそが幸福の本質なんだ」と本気で思ったり、語りあったりしたものだった。 私は人々の悲しみや痛みが、生活者としての人間の心をおたがいが捉えあって、震える思いで受け止めた青春の時を体験した。その時の必死の思いが、いまもときおり右脳に鮮やかに去来する。
 しかし意識の発信台を遠くオリオン星座に置いて、この地上の「自分」の生存とその生存条件をよく見ると、そういう具体的生活現象は、宇宙一切によって導かれた必然と見て取れないことはない。 宇宙神の演出で俺は地球で生きているんだ。そう思えば生命に感動だ。生かされて生きるすべてを、いうならば、いつも全部宇宙力に直結させて考えることができる。そう直感できると思ったらうれしくなった。「いまのそのまま」こそが自分なのだから。

 初めから自分はこうだと決めないでかかる、という意味での無私の自己認識、すなわち宇宙の深奥に魂を走らせ、一瞬にして辿ることのできる定点から、瞬間的に自分を見下ろして観る心の原動機を、あっさりと宇宙意識だと概念することが大切であると思う。この意識で宇宙根源力と自分をつなぐことが、まさに禅でいうところの啐啄(そつたく)同時の原形というべきではないのか。瞬時にして永遠の存在=宇宙生命、意識の空間の無限の拡がりに満ちた想いになる。宇宙意識との合流・合一の平井流パターンである。

 宇宙法則に添った意識力は、宇宙でもっともおおいなるものと認識し得るといえまいか。われわれは宇宙意識との啐啄が達せられ、無限に正しい自由を発揮できるように自己を整えるため、真剣に師を求めて修行するとか、常々訓練を心がけるというふうな、なんらかの実践的学びというか、練磨を継続することを、日々宇宙から求められていると思惟するのが、正しく合理的な考えといえる。
 すなわち宇宙の意識と啐硺することで、自己の意識は力となり、形となり、正しい創造力として現われるからである。宇宙の自発性と啐啄できた意識こそが現世における (すなわち地球的には) 如意棒なのだというのが筆者の信条である。これこそは宇宙の内証が自己に転写されたときの「自己」というべきものであろう。世情的にいえば、滅私の気概というのだろうか。

1999年脱稿「宇宙意識如意棒論」より)

80号「本当の健康を獲得するための技術」

 「国破れて山河あり」という言葉は、多くの日本人になじみ深く折々に親しまれてきました。解釈はいろいろと思いますが、私は、どうして戦の跡に足を踏み入れて、芽吹く山野に感じる「詩情」が人間に訪れるのかと考えます。何につけても、単純な原点への回帰―宇宙に心を飛翔させて、自分たちの感懐・行動を観るというやり方です。このことについて私は「宇宙意識」という言葉をあてはめたいと常々思い、行為しているわけです。
 トイレで用を足せること、お通じがあることは宇宙意識、宇宙地球の力の結果なのだと意識を運ぶのです。どうして、そういう生活現象が起こるのか、なぜそういう風にうまくできているのか説明できません。精神的ストレスがどういう仕組みで体液・血液を酸性化するのか、また個人的に際立った差のある現象を定量化して、科学的に的確に説明するにはどうすれば最適なのか、すべてが解明され終わっているわけでもありません。問題は、”いのち”という存在をどうみるかということなのです。

 私たち地球上の生物は、40億年以上昔から連綿として存在しているが腐敗せずに地表を巡行し、様々に姿・状態を変えながらも消滅することなく生きているために、それを体内に享けて生存し得ています。窒素や炭素をはじめ多彩な元素は、その間も無機的世界から生物界に入り、そしてまた大地・水界や大気の世界に戻るという循環を繰り返しています。そして、その土台は微生物と植物により主軸が支えられているわけです。
 動物は自己の生命維持のために栄養機能の大部分を動けない植物に依存し、余った力を運動による捕食活動に関係した能力の開発に使って進化してきました。生物の進化は、原始海水という地表環境下での出発点を原点としています。今日の地球型生物群の多種多段な広がりは、約35億年間に地球上に登場した激しい気候変化がもたらした「多層・多重化環境」のうち、微生物を含む難千万種もの生き物たちが共存共生しうる環境適正生物として今日の地球上のどこかに残りながら、それぞれが住み分けつつ生存しているという現実があり、私たちヒトは、全生物種に支えられながら最後に出現したという意味で、地球環境の、いわば1から100までの多重多層化環境を背負って出現した生物ということになるわけです。
 
 古気候の変遷・環境の壮大な変遷こそが生物を単細胞から人にまで進化させた原因であり、今日、地球上にある無数の異なった地域的環境の併存が、単細胞から人までを同居させている基盤であると言えるでしょう。このように、生物は、大づかみに言って、環境と一体のものであると考えて間違いありません。形態はさまざまでしょうが、生命現象の基本、発生生育成長増殖成熟衰徴死滅の形は同じで、栄養を環境領域から接種するという原則は全く同じです。
 宇宙生命が用意した私たちの体の中における元素の含有率が、元来海水中のモノと酷似していることこそが健康の大本です。環境問題は即健康問題・食べものの質の問題でもあります。薬と栄養素が混同され、正しい自然力に満ちた食事をせず、人造栄養剤やドリンクに頼る風潮も強いままです。見栄えと生産量を目標に作られた野菜と、お百姓さんが摂理農法で苦心して創られた野菜では栄養価が全く異なります。いろいろな施策、設備、肥料などにしても、食べモノはもちろん、環境としての土づくり・散水の際の水質・活力・葉面散布液の実質的内容が作物などの自然力を本当の自然にするために施用される大事なエレメントになるかどうか議論がないまま、効率的なのか、増収に利するのか否かということを中心にお金が使われ、作物の見栄えと重量などだけで流れやすい側面こそが大問題です。
 
 われわれ人間自身の本当の健康―宇宙地球の自発性にそった健康を獲得するための技術が大地の上で使われるので無ければ過ちの上塗りが次々と繰り返されることになるでしょう。本物は宇宙摂理以外にないわけですから、宇宙を心に宿せば、真理はいつでも姿を見せてくれると信じています。
何見ても真理示さぬものはなし。己が心に宇宙ありなば・・・でいきたいものです。

―「無の技術論 私の自然学(2004)」より抜粋

81号「土のいのち(1)―生命の起源に「土」も作用」

 私たちが日常、何気なく「土」と呼んでいるものは極めて範囲が広く、普通は漠然としています。ここで特に土壌と名付けて問題にしようとするのは、私たちが日々食する野菜、果物をはじめ、畜産動物らが食べる穀類等々を育てる母体としての土であります。
 いわば生命を創り出し、育む土、その土の故に保持される栄養分、小動物、微生物群、または、浄化される水についてのお話をしようと言うわけです。
この問題は、そのまま生命とは何か、人間とは何か、といった本質的な認識にもかかわり合います。すなわち生命の起源なり歴史性なりに関係する問題としての観点からも捉えてみたいと思うのであります。

 地球の進化の必然が土を生み、水を貯え、それに続いて生命の起源があり、そして遂には人間にまで至った生物の進化が考えられるようであります。数十億年の歴史のなかで、地球は今日我々が経験するすべてのものを、その進化、変遷の中で生み出してきたのであります。現存する地球上の生物は、微生物から小動物、高等な動植物に至るまで、その体組織は、二十種のアミノ酸からなる蛋白質を主体としており、遺伝情報の伝達形式、遺伝暗号も同じであることが科学の進歩にしたがって分かってきました。
 つまりさまざまな植物、動物、鳥類も、みみずも、ムカデも、豚や牛や蝶々、毒虫も蛆も、みんな共通のただひとつの先祖をもつと考えられるわけです。生きとし生けるもの、そして存在する無機物の隅々まで、互いにからみ合い生かされ合って生命であり、それ自体であり得ているのであります。このからみ合いは実に想像を絶する重厚なものであるばかりか、その交錯は複雑極まりないにもかかわらず、恐ろしく理路整然としています。その見事な連鎖の妙にはただただ驚嘆するばかりです。

 今日、我々が取り囲まれている環境汚染の問題も人間以外のすべての生きものは人間の君臨のために存在するのだ、すべては人間に奉仕すべきなのだとする捉え方の故に招来された地球規模の生態学的危機そのものにほかならないのです。
 量子力学の考えは、どんな微細な部分にもこの宇宙全体が関係し、その影響を考慮することなしに部分をとり出して考えてみることはできないという考え方にたっていると言われます。分析によって得られた科学的分析値も考察されねばなりません。しかし、ミネラルの存在がわかっても、それが他のミネラル群、つまり有機質群との関係からほんとうに有効か、過剰か、あるいは過少かと言うことが判明しないならば、その分析はほんとうの分析ではなく、単なる情報の域を脱し得ぬ価値しかないことになります。

 国民全体の綜合健康度、病気と発熱の様態についても同じことがいえましょう。生活のリズム、精神の安定性、食べ物のバラエティー性、栄養のバランス等が全体的に不均衡となったときに病気になったと捉えないと回復について語ることが出来ないのと同様です。百種に余る元素のほとんどは植物体組織の中で存在することが明らかになってまいりました。大気中や水中から植物が得ている元素は、炭素、水素、酸素を主軸としていますが、他の元素のほとんどは土壌中より取得していると考えられています。

 これらの元素は、地表で食物連鎖をとおして生態学的な循環をなしており、命のかかわり合う最大の社交場は「土」であることが容易に理解できると思います。生命を育む母体の“土"は、途方もなく複雑なもので、多種多様であり、生命界そのものの様相の写しの如くで、その性質、構造も千差万別です。この地球に土と生命が同時に、からみ合いながら誕生したのは宇宙の奇跡ではないかと思われます。

 土の誕生には生物、ことに植物性の生命の生誕・進化・増殖・拡散がなければならなかった。生命がコケ類から始まって進化していく過程で土が誕生し、土の増大に連れて原野が出来、土が深くなるにつれて原生林のような大きな植物が地球を覆い始め、それと共に地中に微生物の大群、小動物の群居が可能となり、彼らが残留根を残すことで、ますます腐植豊かな土壌が創生され・生育されていったであろうと推察されます。
 生きた土壌生命は流転止むなきもので、物質の循環も、土壌中での彪大な化学反応,工程を得てはじめて行なわれるものであり、植物なくしては土の誕生と成育はなかったのですが、植物も土の世話にならないと成らぬことはいうまでもありません。
 植物に限らず、動物も人間も、その死体の処理は、土中や地表に生息する微生物によって分解・生成され、あるいは消化されることで完了されるので、この生命の巨大なサイクルの土台は、やはり、土"ということでしょう。

「土のいのち」(1980年)

82号「偉大な土の自浄作用 しかし限度を越えると」

 農作の基本は「製造」ではなく、大自然の恩恵を正しく受領するための手続きなのです。自然によって生かされているという感激がそこに宿っていなければなりますまい。
 あらゆる物質を含有し、測り知れないほど多種多様の微生物群が勢力豊かに生棲している土は、健康で総合力の高い土壌といって間違いありません。そのような土は、①通気性がよく②透水性も適正で③保肥力が豊かで④植物根群の要求に応じて養分供給をする能力があり⑤必ず解毒・浄化作用を持っているからにほかなりません。堆肥も闇雲に入れてよいというものではなく、適度の粘土とそこに蓄積される多種の無機元素がなければ土壌が根との複合交換作用を持ち得ないのです。
 
 すべての、このような相互関係は、間断なく変化流動していて、しかも調和がとれ、ある平衡状況を現出していなければなりません。そのこと自体、土が生命体であることの所以(ゆえん)です。この様子は、われわれ人間の生体内バランスと何ら代わるところはありません。健康も病状現象も、生体内化学反応の総和として規定できるし、生物科学的側面からいっても、神秘に充ちた生命の営みは同じように無限数の化学反応の総和として捉えられ、その反応を支配しているものは物理学の法則であることが明らかになってきています。
 もちろん、未知の分野はあまりに大きいのですが、土の生命と生物体組織の機能的調和とは別個のものとして考えることはできません。われわれは、堆肥化の作業で得られる熟成品を土中に還すと同時に、天然に埋もれたミネラル群を、岩石といわれるものも含めて、心して土に補給する努力を怠るわけにはいかない理由がここにあります。この努力を怠って、土中の粘土鉱物を酷使すると保肥力を失い、養分吸着能が劣化し、やがて土は酸性化していくばかりか、土壌微生物も特定のものの繁殖に著しく偏り、土のバランスは崩れて土壌障害が出やすくなってしまうからです。
 厳密にいうと、一年や二年、有機物が入らなくとも作物根が残るし、また何百年培ってきた祖先からの地力の残留がーすなわち貯金があるので、腐植が極端に減少すると考えなくてもよいでしょう。しかし、土も生命体です。私たちの健康と異なることなく、一度力量が衰えると、その回復には何倍もの年月を要する。癌になったといって、手術で摘出すればよいという近代医学の解釈のようなことは、とうてい土には通用しません。また、逆に過多施肥も同様に調和を崩すことになり、特異な部分に養分の傾きが起こり、特殊な微生物の異常発生が見られるようになり土が病み、作物はそれに応じた実りしか示さないでしょう。
 強調すべきは、土中の栄養バランスで、量ではありません。食べ過ぎは健康を害するのと同じです。適切な腐植とミネラル群の補給こそが土の偉大なる力を保持する鍵であります。この健全さの故に、外部からの急激な変化にも応えられる土の緩衝作用が働き、農耕作業上での人間側の肥料のやり過ぎや、ペーハーの変化の害から作物根を守ってくれるわけです。有害物質の侵入による汚染も、これを浄化し、可能なかぎり解毒してくれるのであります。土の自浄作用はこの偉大なる浄化作用と解毒作用の総称であります。
 農薬や重金属で汚染された大地が、徐々にその地力を回復してくれるのは、この力のためです。ただし、この偉大な力にも限度のあることを知らないと土を死に追いやることになります。公害が何か漠然とした、人ごとのような気安さで過ごせる部分があったのは、この土の偉大な力のために反応が徐々で穏やかであったからでしょう。
 
 大気汚染にはじまって、水質汚染、土壌汚染、農薬汚染……その大部分が土の浄化・解毒作用の故に、まだこの程度ですみ、ある人々は対岸の火事のように思っているのでは、と憂慮されます。その害が人間、その他の生物におよぶ時は、すでに土が病床にあるということだからです。すなわち、植物、動物、人間の健康度は、すべて土中のあらゆる要素に精密にリンクされているのです。
『土壌環境の汚染は、人間も生物の一員であることを忘れたことによって始まり、土が生きていることを無視したことによって深まりを増すのであります。』

「土のいのち」1980年(完)より

      


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