微生物的環境技術研究所主幹 平井孝志
「微生物様は神様です」が口癖の平井先生は、環境とは生存条件と言われます。宇宙の摂理に基づき自然と共に生きる知恵を持とうと語られうお話にファンが多くおられます。
過去のレポートも、どうぞご覧ください。
29号「二つのエコロジー」・・・ディープとシャロウ
2008年は環境復活の新年としましょう。現象を追い、目前の成果で良否を主張する、又は判定する自己中脳の時代を終わらせることが大切です。心の時代・意識の時代。なんでもテレビなどに「成果」の映像を求め、そこで優劣を決めてかかる人間業(ごう)の時代から「宇宙の変化」「地球の変化」におののき、目に見えない生命力に意を注ぎ、宇宙の創造力と人間の意識が合体することで直観できる祈りのようなもので、温暖化問題に挑み、文明・国家・エゴを崩し、人間を純化する流れをお互いに工夫して行く時代です。
地球温暖化阻止を、地球人類の明日の生存にかかわる根本事業として、国内外共々に騒がしくなってきました。CO2発電という構想も1990年頃から聞き及んでいましたが、その頃から私は世界人口の数や、せめて人口の1/2億本の苗木を植える努力を、国際的な約束ごととしてやることを忘れていませんか?と言っていました。
前者の方法(方策?)は先端技術の粋を盡(つく)したもので、そのシステムの概略図面を拡げ、その方式を説明されると、何と凄いことか、人間の科学技術はそこまで可能なのか!と、驚いたことを忘れてはいません。でも、後者の私の考えは1991年以降実際に実践してきたタイとインドに於ける森林ボランティアの複数年に亘(わた)る体験に基づくものであり、「自然と人間」の密接な一体化の関係を拡めることが有効であるし、大切なことだと「自己の細胞」の声として「地球さま」の奥底からの要請として「霊体験」した真実に基づいた考えであります。決して古くならない「雇用増大」と「平和」の為の人海作戦と嘗てから環境保全の社会政策として良策と考えています。今も…。
「リサイクル」「リユース」「ゼロエミッション」も真剣な政策として尊い考えであります。が、より大切なことは、これ等の社会体制的なことではなく、それにかかわる人間の成長、「生きものとしての」意識改革こそが、人間教育として真剣に問われなければなりません。
文化的に高度であると考えられるものの中には、地球生態系を保全するために宇宙が用意・配備されたものとは異質な「欲望」が独善的に隠されていることが沢山あるのでは、と考えられます。実に高邁(こうまい)で美化されているシステムの中にも「宇宙神」の奥深い生命運営のための“支配”を、かえって困難にしていると考えられるものがあります。人間の物欲・人間の都合中心の満足を達するための進歩と称せられる一歩一歩の足下に、地球が困り、地球生態系が困るシステムが文化・文明の華麗な羽ばたきの故に、目に映らず、秘かに摂理を瓦壊(がかい)する元凶となっているものが沢山あるように思うのです。
人間だけが地球エコシステムの住人ではないのだ!空気も大地も所有権者は地球なのだ、としっかり受けとめ、自己中心の欲望を沈め去って「地球中心主義こそ天の加護を呼び、生態系生物群の生存が可能になる唯一のシステムなのだ」、と今こそ永遠に古くならない方式に力を注ぐべき時と考えます。どうでしょうか?!
先祖を偲び、感謝し、環境という「生きもの」の親を供養し、立派に復活させるべく「摂理に添って」投資をし、働くことを目標にしなければなりません。自分たちの生存のために、欲望的目標達成のために環境を「使う」今までのやり方は全くダメ。
もうこれからは「親である環境を創造する」のです。物質科学万能の迷信を広め、人心を権利の主張と、傲慢(ごうまん)・怠惰を合理化とする概念で自分たちを狂わせ、親(環境)を摂理の法に違背させて老化させた。
環境に生かされていて、やっと生きているという感動の中身を深く勉強しましょう。ディープ・エコロジーの実践のために。
30号「二つのエコロジー」その2
ディープ・エコロジーの実践的理解の為には、人間が行ってきた過去からの浅はかなシャロー・エコロジーの実例を知っておくこと、一見立派な事業でも、それこそが生態系を破壊することになってしまった実例を知っておくことは大切です。
この地上生態系という実体は、40億年来の微生物からヒトに至るまでの生物進化の歴史が、何千萬種もの生物群が幾重にも重なり合い、交わり合い、食べられ・食べるという「食連鎖」を通して、相互が他の生存環境になりあいつつ、寸刻の休みもなく生活を続けてきた結果創生されたものです。一口に言えば、地球に寄生する生物種の1から100までが絶妙な調和を形成している姿が「生態系」という訳です。生態系の生物群は、宇宙地球の始原的な法則に則って展開されてきました。その間、どんな種も自己中心的な我儘は許されず、生存条件として地球が用意した環境に適応することで進化してきました。
この進化のスピードは古生代、約6億年近い昔から、それまでの極めて緩慢なものから急激に加速されました。しかし地球の年令からはほんの少し前、即ち4~500万年位以前から、人類は進化で与えられた知性を駆使して、自然環境に適応しつつも、積極的に自然に働きかけ、産業革命からの200年余りのうちに達成した重化学工業の発展により地球上で大きな地位を得てから、自然を変えるばかりか、自らもその発展によって重大な影響を受けるに至ったのです。
生命とは「宇宙の尊厳そのもの」と定義したいと思ってきました。人類だけが生命現象の主人公ではなく、結果が生命圏の他の生物にも不都合になることが「直観」できることを、人間の都合だけで莫大な資金を投じて強行するケースも多々見られます。
1990年代に作られた長良川河口堰が完成から3年余りした1999年に、1998~9年春にかけてのある大学の研究者の報告が新聞記事になりました。それによれば、堰のあたりは悪臭放つヘドロが2mも貯まり、盛んだったシジミ漁は潰れ、その影響は中流にまで及び、長年其処で漁師をされている一人は「嘗ては潜ればアユが体に飛び込んでくるほどだったが、今は数も少なくアユの体自体“小ぶり”になりました。ベンケイガニ、ゴカイ、サツキマス、シラウオも減っている」と。大自然の都合を無視して強行した人達は、一体この責任を“環境”に対してどう取るのでしょうか?
社会が動いているのは人間たちの生活があるからで、シャロー思考になり勝ちなのは人間の生活自体、今も全く自然界に依存しているのに、マーケットがその事実をふさいでしまっているからでしょう。実際問題、生活の多くは大げさに努力をしなくとも息もできて、歩けて、話せて…、と大多数の人々は、その「自然」を意識しません。腸内細菌の活躍があって生かしてもらっていますが、その事を殊更日々重大に思うことはありません。同様に自分たちが秘やかに持っている夢も、自然の水、土、空気があってのこととは考えないのが普通です。
ところが、生存環境がここまで傷ついてくると、新しい開発や、河川の改修、村や町の道づくりも人間の都合よりも、その作業で自然の機能がどうなるだろうか?を先ず問わなければならない――その事を二の次にして市街化を進めるとやがて災害の因となってしまう、そんなケースが多く、その「因」を見ようとするのが本当のエコなのですなぁ。都市計画論や生活デザインからにおうのは、矢張り人間優先・化学とか文明論が経済価値という分野を優先してしまう危険ではないでしょうか。
31号「二つのエコロジー」・・・ディープとシャロウ その3
20世紀に、我々人類は2度にわたって世界大戦を経験しました。他国に勝利するには、何よりも強力な破壊力を誇る武器・弾薬・道具を開発・保持せねばなりません。各国は他国を圧倒するためありとあらゆる知識・技術を総動員しました。
科学・技術は当然、異常に進歩しました。大戦後も、次の戦いのときに備えて国家間の「笑顔の影で行われる」競争は益々すすみ、欲望中心の生き方が個人レベルに浸透しています。人々の猜疑心は民族間と文明間に深刻な対立を呼び続けています。殺生も止みません。中東諸国を中心とするテロを見れば貧富の差からくる権利意識は、水平思考に眼を(意識を)釘付けにして、 “文化”という各地での生活習慣、各民族ごとの特徴ある「他を慈しむ美徳」を消し、欲望が一部の大衆に引きずられて吹きあがり、自分たちが地球生態系のお陰・環境という宇宙賦与の生存条件の故にこそ、この地球で生きておられるのだという視点が丸っきり消えてしまっています。
日本に眼を移してみると、正直、質実、熱心なんてことは死語同然となり、金銭欲をあらわにすることを何ら恥じず、教育が行きわたったことで多くの若者たちを自信過剰にしました。その傾向は他の多くの国々でも感染症のようにはびこり、人が、社会が、国家が、自然を征服できると錯覚できるような技術・資本を持つことで、自分たちの幸福・自分たちの文化を昂揚できると思う傾向に行き過ぎの影がさしているようにみえます。
謂わば、大自然への深い感謝が忘れられ、“環境”という生存(・・)条件(・・)を無視しても、エネルギーの獲得に余り支障がないようなら生きられるのだ、とする無意識の錯覚が、生命(いのち)への感慨を浅いものにしてしまっている傾向が、この日本でも、他の先進国でも際立ってきました。総じて、ヒトは言うならば、宇宙と言いたいのですが、平易に言って、環境の立場から自分たちが読めない(・・・・・・・・)人間になりつつある訳です。
何が何でも経済・豊かな収入・・・ということが主眼になってしまいました。けれど今や、自分たちの生命の「生みの親」である環境に対しての深い配慮(ディープエコロジーマインド)を欠いて、もうどうにもならないところに人類が居ることを知らないと、全ての既存組織はダメになるのですねぇ。
「地球環境」を中心にすえ、自己・集団・国家という区切りの概念を消さないと生きのびられない新しい文明にさしかかっていると悟る(さとる)必要に迫られているのです。
男女の区別、一般の人々と専門家との区別、個人と企業や、消費者と生産者の区別がしにくい程に情報が行き渡り、ただ化石燃料を含む「資源」と「食糧と水」をめぐって戦争が起きないように世界の皆がモラルを高めないと、これ以上森林の減少に手をかすなら海水位が85mも上昇する予測計算もあるのだ!との警告もあることを知っておく必要があるでしょう。
一種類の始元バクテリアから始まった地球生物が、6千万とも8千万種ともいわれるほど増えたのは、互いに滅ぼしあうことをしなかった生存法則のせいで、生き物が共存共栄してきた揚句の成果と言えます。その多様性が今や日々喪失し、この100年ほど前から25~27%ほど平均して失われ、最近では絶滅種は増加の一途と報告されています。人類は一人ひとり何をすべきか考究できないでいます。日々の生活の中で、どういう情報を手にし、どんな情報を捨てるかの選択の基準となる大生命観が持てないでいます。小手先の経済学やハウツーものが幅を効かせ、生存価値(環境の本質)を語る意見が遠ざけられる傾向を否めません。これは心の汚染を示唆する傾向です。
皆さん!汚染されているのは地球ではなくて、本当は私たちの“思い”なのではないでしょうか?是正の為の薬があります。それこそは大自然の空気、緑、水、光・・・のすべてに、日々、午前、午後、一息ごとに感謝を思うことではないかと思います。ディープエコロジーの基礎であります。
32号「二つのエコロジー」・・・ディープとシャロウ その4
地球という天体のボールは四方八方、全表面で宇宙空間に触れています。しかも、常時ぐるぐる回転して止むことがありません。夜になって、私たちの眼に触れるあらゆる星々は、大きさや形態に多少の差はあるでしょうが、地球と同じように回転しているようです。
この星も、この星座も、皆な回転しているということでしょう。この動力源は一体、どうなっているのでしょう?何十兆個という巨大な岩のボールを、或る時は何十万度というのか、何百万度というのかわかりませんが、超高温で原子の火を燃やしながら、本当に、誰が何の理由でまわしているのでしょうか。この地球という最も身近な実物に就いて考えてみても、ちょっと踏み込むと少々愉快な物語りが拡がりますなあ!
赤道の周りは凡そ(およそ)40,000Kmと言われていますが、これを1日(24時間×60分×60秒)=(86,400秒)で概算割りすると、453m/秒が得られます。1秒にほぼ、400m~450m地球の表面は動いているので、あの6000℃ほどの太陽表面温度で何百度にまで熱せられずに夜を迎えることが出来ているのでしょうか。それに、太陽光の熱線と地表の生きものとの間には、空気層・オゾン層など何重にも地球が「衣」を着せてくれているので、生態系の生きものたちは黒こげにならずに済んでいるのでしょう。
生態系の一員――それが植物であれ昆虫であれ、動物であれ、草花であれ、人間は言うに及ばず、それらと付き合うというのは、長所(・・)を(・)引き出す(・・・・)よう(・・)に(・)接する(・・・)ことではないでしょうか。生きるとは、誰であれ、その人を、その個を生かすことで自分も生きるという深い事情を悠々と考えながら日々を過ごす事、と言えるのではないかとも思います。
生活の深い部分でそんな心を持とうとしないで、表面的で柄も色も同じような情報洪水に浸かっていると、人間は脆(もろ)くなり、社会は弱まります。所謂(いわゆる)、浅い考えで行為する人々が数の上で圧倒的に多くなると、最も大切な基礎部分の社会性・世界の法則のようなものに全く無関心になってしまい勝ちです。本当に大事な地球の発する「気配」のようなものに鈍感になっている今の世は、そういう危機にあると言えるのではないかと思うのです。
些細な日常生活の場で「他人のことを心配し、自分として何かできればやって行く」ようにすることが肝要。小さな昆虫、小鳥、蛙などの生きものを仲間(衆生)として「共に生きているのだ」と思えたら、些(いささ)かなりとも、宇宙のルールとしての「共生の証(あか)し」を発見したようで誇らしく、自分の心に微笑むことになりませんか?環境を保全し、再生する「小さいが決定的に大切な」体感と言うものでありましょう。
浅くて、即興的な、話題や、大衆性だけに浮かれ、おいしい、すごい、「うまい!ねえ!」式のTV番組の如き「ノリ」もよいでしょう。でも、日に何回かは、地球が叫ぶエコ・ルールの厳しいリズムに心耳(しんじ)をすましたいものと思います。
私たち人間が、今や自分たちを教育し直すときを生きていると思われませんか?深々として巨大な「地球エコロジー」の原則認識のため、一人ひとりの人間形成が「宇宙神から求められる時代」が湧き立ってきました。国民の一人ひとりが芯から健康で免疫力のある強靭な体力を目指さず、徳性を高め、国力・経済・社会的和合・連帯を実現できないなら、世界平和への貢献なんて覚束(おぼつか)無い。人間形成・徳育に「まっしぐら」がディープ・エコロジーの峻厳な命令だと思うのです。
「感動したり、深く考える喜び」が、人間から離れて行くことは本当に怖いことです。そうすると、勇気が心から消え、代わって隣国に対する鋭い敵愾心(てきがいしん)が燃え上がるんです。学校や下世話な世間法の次元では、身近で弱いものを苛(いじ)める方向に人は流されるんです。浅はかな目先のエコ感性は、同じような理屈で、地球をドンドン各個人の生活場所の遠くから音もなく加速度的に崩して行くのです。恐るべし、シャロー・エコロジーです。
33号「二つのエコロジー」・・・ディープとシャロウ その5
今回で、お話も5回目です。そこで冒頭に、両方のエコロジーの定義のようなものを提言してみようと思いました。
① ディープ・エコロジーというのは“宇宙・地球の法則”に照らして、その巨大な戒律・摂理に添った生きざま、技法、行為、事業などを総称するものである−−−と定義できるのではないかと考えます。
② シャロウ・エコロジーは、①に反して浅い考えの人間中心の行為を指すものと言えます。即ち、人間の社会的欲望、人間自身の都合を優先し、本来の環境という自然を自分の解釈で踏みつけかねない技術、行動、事業などを指しています。
言葉を足しますと、①は生命・環境という宇宙・地球の奥深い意図から地球上の生物群全体(・・)の(・)調和(・・)生存(・・)の仕組みを全くする方式であり、永遠の真理実現の過程(道のり)の都合が最優先される宇宙の壮大な計画顕現、現象であり、真実の意味で「自然」が自然運営を続行する、最もまともな姿であります。結果として起こってくる事象・現象は、人間たるもの、甘んじて受け入れなければなりません。それを人間の都合で否定し、変更を利害欲得でしないことが大切です。科学という道具を自己弁護のために動員せず、摂理に添う姿勢こそ「聖なる調和」と言ってよいかと考えます。大自然の助け舟が行く手に現れます。②は人間社会の都合と利益計算で、生存条件である環境(自然の山野、自然の河川、湖沼)を好き放題変更することをシャロー・アクション(浅い行為)と知って、或いは、知らずに、浅知恵の行為に走ることを指します。我儘な積極的行為で、聖なる調和を乱し、壊す行動であります。その先には罪深い滅亡の運命が待っています。
米国のサブプライム・ローンの破たんから連鎖地雷が次々と世界主要国の財政を襲っています。世界的同時不況が深刻化しようとしている姿は、とに角、お金、お金とひたすら人間が作った幻想の「証券」を追い続けた挙句のことです。息ができて、食をいただけるのは何をおいても地球生態系があり、雨があり、森と海と大地で、生物群が“宇宙地球力”によって育てられ、その提供をうけて来られたからだという「生命」の由来を忘れていたことが源です。ディープ・エコロジーとは生命(イノチ)の座標を守ろうとする志を含んでおり、それこそは「聖なる生活基軸」というものでありましょう。
宇宙生命の真実は単に巨大であることを超え、比較を超えて一切を統括するスケールなのですねぇ。奥深く「カタチ」のない霊魂の力による直観としか言えないような感性で今日の環境を観ることで、周囲の世界の変化を予見できることがディープ・エコロジーの“真柱(しんばしら)”ではないかと信じます。対立と相克の相(すがた)から本当の“宇宙生命魂”はみえて来ませんね。科学は見えている世界、数値で計算できる世界しか見ようとしないんです。
「環境」・ディープ・エコロジーの対応する世界は、人間がとても謙虚にならないといけない世界を示唆します。西洋の文明は自己主張の文化を根っ子にしています。何でも彼でも、人に先んずる、人に勝つ、弱者を奴隷にして発展してきた部分を多く持つ文明でした。この考えが環境破壊の元凶です。でも、日本人、東洋の“水田文化”では協調が第一で、自己没却型の文化です。その形成過程で精神性を大切にしてきました。自己制御(ブレーキ)の文化と言える部分を多く持つ日本文化に埋まっている精神は、ディープ・エコロジーの根拠に通じるところ「大」だと思います。これからの世界変動期における私たち日本人の役目は、単なるCo2問題なんて言うことを大きく超越して、深く、広い意味でとても大切。これは日本人の地球に対する大使命と思い、宇宙神のご期待もそこにあると深く、有難く受け止めて生きようとするのも大そうロマンに満ちたものと言えますまいか。
環境とは、正しく生命存続のための絶対的条件、即ち、ディープ・エコロジーこそ、地球生態系保全の“大智”でなければなりません。それに基づかない行為・考え方は自己滅亡への「愚挙」でしかないのです!!
34号「2009年初に思う」
昨秋以来の世界不況ですが、構造的には人為的なもので、その根っ子は「生活・家庭」といった目前の快適さばかりに目が奪われ、「深い人生とは何か」といった価値観が失われた点にあります。どのように生命が成り立ち、生きていけるのは根本に何があって、何の恩恵で呼吸・食事が可能なのか、排泄物をどう始末すべきか、地球にかけている迷惑を最小にするにはどうすれば良いのだろうか…。自然を食べて生きているのに、自然をどこまで崩しているのかを省(ふりかえ)って「健全」に生きるにはどこまで自然を痛めても良いのだろうか、と言ったことが未だに重大なこととして世界(人間社会)が対応しきれていないのが気がかりです。我田引水でなく、世界の心ある人々は「自然」回復産業・循環(生命)産業に再び戻らざるを得ないと思えます。
人間は生態系社会・生物のことを沢山研究して知識を取得しています。特に物質世界の仕組みや性質について、物凄く知識を貯め、それを人間社会の進化の「証し」としていますが、トイレの臭気が嫌だと化学消臭剤が売られ、それを流す。この薬剤で沢山の糞尿要素を分解して水を浄化してくれるバクテリアが死ぬ。自分は満足でしょうが、循環を基本にして「生きている環境」・生態系は次々に傷んでゆく。生態系の生物はみな他の生物の犠牲なしには生きてられません。私たち動物である人間、ひとり一人は約200兆ほどの微生物と共生して、やっと生きています。トイレの臭いまで化学物質で無くそうとして微生物を殺し、結果下水処理がとんでもなく不完全になってしまい、一見清らかに見える水は、水道局を経由して再配分して私たちの体組織に入ってきます。
食糧自給率も40%以下、化学肥料・農薬多用で危険、内容の充実していない、見かけが野菜でも実態は食べ物と呼べないような内容の食糧、湖沼や沿岸の生命力の弱体化、これらは一人ひとりが、自分の問題として取り組まないといけないのに、対岸の火事を見て「大変、大変」と言って興奮するだけで「はい、終わり」の連続ですなあ。
古代から今日までの人間が得た知見の全部を集めても、実は私たちは「生命」について殆ど何も分かっていない事を静かに心に抱きつつ、自然に向き合わないといけませんねぇ。
これだけ地球環境危機が言われても、未だ自己弁護しつつ樹齢200年の森林樹を伐採するわ、珊瑚の減少は止められないわ、レジャーで白砂の海で遊びまわるわ・・・である。火山を静められない、集中豪雨は止められない。台風もハリケーンも大自然は真理の「経」を詠むのであります。ここで、理屈でなく心で自然の唸りを読めないものか?
世界金融不況から学ぶことは、人間たちの行き過ぎた勝手気儘な「自由」と呼ぶものです。それは真に宇宙が放つ自由ではないことを今、読み取らねばなりません。啐啄(さいたく)同機(どうき)という言葉があるが、卵の中のヒヨコが成育して生まれ出る時期になると、音もなしに、親鶏は外から殻をつついて割り、芽出度いヒナの誕生となる時に用いる言葉という。人間は頭で考えるから、こういう啐啄同機に気づけないのでは?と思うのです。
かつては世界で4番目に大きい中央アジアのアラル海が、そこに流入する2本の大河から、灌漑用水の使用を増大し、綿花栽培を急拡大せんとした。その結果、アラル海の水量は84%も減少、塩分濃度が極度に上がり、死海もとっくに超えて、魚類は死に絶え、露出した湖底から、塩類を含む砂塵が年間7,700万トンも大気中に飛散、元にもどるのは全く不可能と言われ、砂漠化した湖底には錆びた漁船が何隻も傾いている。ウズベキスタン地区の惨状は地球と生命の歴史に人間が残す汚点で、同類の「汚点」が生態系(環境)にどういう綜合的影響を与えるのか、実に不気味な想いですねえ。こういう利益誘導、経済価値追跡型の社会構造変化のせいで、人類がどういう争いを起こすに至るのか、世界をどんな暗黒に導くのか、考えると寒気がする思いです。
人間は、如何なる超(・)動物的行為(?)が達成可能であっても、地球上の大きい立場からの生態学的合理性を破壊してはならない−−−−という限界を知りつくして行為する「直観」合理性を忘れてしまっては、早晩、自滅しなければならないでしょう。
今日の経済的危機は、生態系社会の本源的再生、自然環境―特に、森林の巨大な再生事業に踏み込む事で、雇用を創出する何よりのチャンスであります。価値観を変換して、宇宙から観た魂の再生を目指して、無欲に資金を動かし本気で臨めば、人類社会の本当はそうでなくてはならない姿に、私たちはやっと立ち還れるのではないでしょうか。
「国民経済+社会政策」の道を大道として押し進めるには、『自然を回復』し、『食べることに自然を求め』、『死ぬことに徳を発見』しつつ生命を生き抜く事こそが、地球に生を享けた私たち人間の不二・無双の道かと考えます。
35号「人間という生きものの「務め」 その1 」
今日までの世界を鳥瞰すれば、世界最大の問題は貧困と汚職であった。先進国でも、また、アフリカも、アラブも、夫々が「自己中心と人間の生物としての社会中心」の価値観にこだわり、金銭で金銭を追いかけることになってしまった。世界の中で「自己が一番」とする風潮が膨れあがり、遂に米国のサブプライムローン破綻になり、その爆風は世界を吹き荒れ、欧州、アジア、特に新興力を誇るインド・中国を巻き込んで経済成長至上主義の暴走にブレーキが架かった。
突然訪れた世界不況、失業者の続出。殆んどが工業世界の組織・工場などで働く人たちです。工業と言う範疇には、科学的産業、電気・電機(機械)、自動車等々の製品を造る全部位の工場が入っています。この人たちの多くは1950年頃、第2次大戦が終わった時には農村、漁村、山村で幼年期を過ごし教育をうけ、工場、商店などに就業したことで近代化を背負い、国の社会システムを創り上げてきた人たち、及びその子孫たちです。この不況を、失業のままで過ごすことは本人にとっても、日本国にとっても多大な損失です。彼らの力を借りて、できる限り「人力」が多く配分される形で、所得の分配が広くに行きわたることを意図して、損傷をうけている農山漁村を正しく回復することは社会政策としては勿論、国策としても、人道上からも肝要でしょう。そして、森林、山野、共々に環境改善の原点ですから、長期に亘(わた)って、人々の将来世帯に安定した生活を保証することになるでしょう。
環境問題に向き合うとき、私たちは全体を見なければならないのです。即ち、健全に人間が生きる為には、何よりも沢山の生物群が生命現象を行っていて呉れなくてはなりません。第一呼吸です。10秒間も息をせずにはいられません。清浄な空気が遠くから移動して来てくれないと困ります。吐いた息も流れて植物の炭酸同化作用に役立たないと、野菜も食べられません。水が飲めなくては生きられません。その為には雨が降ってもらわねばなりません。普通は山に降った雨が森林で濾過され川に浸み出して来て浄化されていることが望ましい訳ですから、無闇に木を切ったりせず森林を守ることが大切です。
すべての動物は植物の活動に依存しているわけですから、針葉樹林の何割かを早急に実をつける落葉広葉樹や常緑の広葉樹の混植に変化させつつ緑の山野を元に戻しながら改善することで、水の涵養(かんよう)は勿論、沿岸の漁業、海中植物の急速な発生を促すことに繋がる(つながる)こと必定であります。また・・・生態系破壊を伴う開発という衣を纏った文明化の途上での過ちを、坦々と膨大な国費で早急に回復することが共生原理をとり戻すばかりか、人々の生存と心の環境に光を充てることになります。愚かにも、私たち人類は長く共生原理を忘れ、人間だけの繁栄を求め、自然のすべてを人間だけの、而も特定の国家の繁栄を主眼として来ました。ローマ、ギリシャ、中国、インド、エジプト、アラブ諸国・・・列記しますと、どの国も森を切り倒し、多くの近隣国を奴隷にして来ました。
現代では河川湖沼の多くを人間だけの幸福のために利用して来ました。生態学・宇宙生命という分野に就いて今日ほどの探究が行われていなかったこともあって、山林の大木を余計に切り取るばかりか、河川の水も、流れを変えてまで人間の幸福(物質的豊かさ)のため利用を拡張して来ました。そのことで、河川に住む魚介類、それと共生できないと生きてゆけない動物(例えば鳥類、水性哺乳類や昆虫)のことなどは殆んど考えないという横暴さであったことに就いては、沢山の報告、研究、警鐘が打たれています。
小手先の“賢こさ”で環境計画を立て、生態学の専門家が寄っても、今日の「破壊が進み、汚染が多様に侵入した自然」の問題は解決が難しいでしょう!濁りない「般若の智慧」が、人間のありきたりの知性の作品にすり替わると、環境改善は改善以前より一層、厄介な状況になり下がるのが普通です。洪水を防ぐということで、次々と堤防を積み高め、強固に構築する一方で、山間の山肌を崩してダムを造り続けようとするのは、或る一面では「智慧」の否定を意味し、人間知性を第一とする自惚れの形を固定したようなことになるのです。
数十億年かけて宇宙が地球上に演出した生命現象を私たち人間の生存条件と捉え、与えられた生命を、宇宙に賦存する大法則・摂理を訓(よ)みとって、この地上に正しく適用することこそ“善”であります。間違いがないのです。この不可思議な惑星上の成り立ちと進展を破壊しないように守りつつ、感謝で、生を享けた意味、意図を意義あらしめるように生きることが人間という生きものの「務め」ではないでしょうか・・・ (続く)
36号「人間という生きものの「務め」 その2」
身近な宇宙的真実の顕れ(あらわれ)は「農業」です。或いは、食糧の採取です。生命現象という宇宙由来の真実(宇宙法則)を知らないと、本当の農作物は取れません。もっと言えば、土を知らないと果樹の育成はむつかしいと言います。勝手に放っておいて実のなった丈でよければ、そんなにむつかしくはないかも知れません。オランウータンと同じ生活でよければ、それでOKですが、人間という生きものは文化の中でしか、精神的向上が果たし難いという宿命がある限り、宇宙の工夫を土に活かさないと大集団である社会を一まとめにして生きるというのはむつかしい訳です。
樹木には、樹高の何十倍もの根っ子が伸びていて、夫々の「木」には特有のミネラル群と微生物が必要なんですねえ。クヌギにはクヌギの、栗には栗と仲良しのバクテリア群があることが善いのです。地上は私たち人間で言えば体躯(からだ)です。内臓は間違いなく根っ子でしょう。
根っ子は途方もなく大きい数の微生物群という内臓機能組織を養い、自分自身も養ってもらい“宇宙生命”というイノチを生きているのですなあ!巨大な「生態系」という「生物の社会」を養う為の巨量の清浄活性水を創り、小動物に実を提供して養う為に山に生えているのです。活性・ミネラル水の製造工場の一角です、一本々々が。動物のために酸素を創ります。Co₂を減らします。
末梢の論点はいくら重ねても、真に正しい自然回復の為の論拠としては、どれもが不十分であることでしょう。もう何十年も、私は「環境とは何か」の説明に苦心してきましたが、20年ほど以前、「環境とは生存条件の異名」と発言、発題してはどうか、と強く思うに至りました。さて、今日の不況を乗り越えるのは、今日まで三千年もかけて破壊し続けてきた森を復元し、緑の多様性とそこを原生林のように深々とした諸動物、昆虫群の楽園に差し戻すことに巨額の投資と人的資源(雇用)を投入することで、はじめて可能になると確信しています。
心眼を開きましょう。人類が消滅しても森、微生物、草原や、その他の生きもの達は間違いなく生きのびるでしょう。嘗て、全生態系の90%以上滅びたという6500万年前の地表の大変化から、再生されたことを思えば、人類さえ消えれば1000年もすれば生きものの世界、大森林は回復するとイメージできるのではないでしょうか。
宇宙の創源からの摂理の声を心耳で聞けば、今日この世界金融経済不況に発する経済・社会の綜合不安は、宇宙神の叱責、人間の自我欲に基づく文明・文化の誤謬に対する「お説教」に外なりません。
樹木の「苗床」づくりを無限にすすめ、多様性を科学的成果と経験から学びつつ、深い哲理を守ることを条件に、植林を世界各国と手を携え必死の知恵ですすめれば、世界は真に健全な働きの場になることでしょう。森 ― 本物の森を創造することを忘れず、人類の進化を心で見つめて行動することを続けることこそが“真理”ということではないでしょうか。多様な微生物の大群しか居なかった地表が緑豊かな陸となり、草原――-森となり、そこに依りかかって多様化した生物群の出現・進化があって、我々人類があるのだ、という真実を忘れず、生命の大道に添うならば、人類は生き続けられるかも知れません。
皆さんもご承知のように、ここまで地球資源を搾取し、利用し、汚染した上で、文明の利器、科学の力で環境修復し、何とか自分たち人類にとって有利に工夫しようというのは、謂わば手抜き工事で殿堂を建てたいと希求するようなものと言えないでしょうか。
「空気」も「水」も我々は創れないのです。とに角せめて1億ヘクタールの深い森を徹底して回復することに革命的な努力を世界中で始めてみませんか?摂理、宇宙地球の生命の中心柱は、そのように無欲な地球への貢献の心から立てられる筈です。私はこの単純な実行可能な足下の行動以外に人類の生き残りの道はないように思うのですが、どうでしょうか?少なくとも1億ヘクタールの植林が進むごとに、人間たちはウンと優しくなります!不思議にそうなんです!!生命とはそんなものなのではないですか?
(完)
37号「私たちの故郷は、ここ(地球)です。ここ以外にはない!」
誇り高く新聞やテレビで報道された宇宙飛行士の若田さんが137日間の船内滞在を経て、地球の基地(米国)に帰還される姿が気になりましたが、予想以上にお元気でほっとしました。それでも何となく色白でほっそりとなられた印象で、しみじみ表題のタイトルが浮かんだのです。ロシアの宇宙飛行士が、地球に帰還してハッチを開けた途端に自分を包む「草の匂い」に「私は地球人だ」と思った…と語った記事に何度か出会ってきましたが、同様の印象を若田さんの口からも聞いて、心から帰還を喜びました。地球生物としての「我等意識」を強くし、『あっ、DNAは丸っきり同じなんだ!』と当たり前のことに妙に感動している自分に歓喜したのです。この体験は実に妙な仲間感情とでも言えましょうか。
教科書に学びますと、人間の身体のはじまりは、たった1個の受精卵が女性の子宮のなかで数十兆個の細胞に分裂し1人のヒトとして誕生しますが、考えてみると物凄い生命力です。生命活動のベースになっている細胞の増殖、分裂を支配しているのはDNA(デオキシリボ核酸)で、このDNAの指令を受けてタンパク質をコントロールしているのがRNA(リボ核酸)だと解明されました。20世紀半ばの頃の話です。
地球上の全生物は一元的に、このシステムによって統一的に生死の道を歩んでいるそうです。そのシステムで生きている仲間の世界を「生態系(eco-system)」と呼んでいます。エコ・・エコと口走っていますが、何十億年の地球生命界の呼び名であることが知れます。
生物の誕生、生育、成長、老化、死はエコ界の運動法則でもあります。
核酸が統括運営している身体の主成分はタンパク質で、その生産が旺盛な成長期・青年期は肌も新しい細胞で若々しく輝いています。老化の年齢にさしかかると、誰もが頭髪は薄くなり、皺も出て来ます。「死も亦(また)生なり」という哲理を納得しなければ生命を、また自分を、知ったとは言えない宇宙の摂理がこのなかにタタミ込まれているんでしょうなあ。
昨2008年日本人科学者4人が一緒にノーベル賞をうけました。137億年前のビッグ・バン(宇宙大爆発)直後にできた宇宙のあらゆる物質のモト(基)になるクオークという素粒子の構造なんて言う微細「究極の物質」に関する予言が実証されたことが詳しくTVで放映されました。
生命活動の根元の姿、物質の究極の姿、ともに解明されたことになりますので、地球上のあらゆる現象の極限が大いに見えて来たということですか。これ等はまさに西欧科学式現象解明の究極の快挙と言えましょう。
これ等に対応する彼岸に、東洋的理想と言いますか佛教聖典に見られる憧れの平和境への道が説かれています。その存在は絶対的極致というのではありません。最適境というか、足るを知るべし、とする美しい精神世界への理想郷を示しています。完璧なまでに「自然」のありようが調節された「摂理」(providence)の世界が厳然として開けていて、人間たちの来訪、到着を待っている―――何か、そんな世界が存立している。この姿こそ「超合理」の宇宙本質の世界と言うにふさわしい。
何かを支配する為に精緻きわまりない論理を研ぎすますのではなく、宇宙の透明・清明な摂理を受け容れようと下座し、不足不備があれば自己自身を変化させながら、まさに其の「超合理」を体(たい)解(げ)する喜びの生活を掴む(つかむ)姿勢を得がたいことと思う歩みなのでありましょう。そのために‐‐‐‐「日々の生活に精進し、学び、精神的充実の為、何かと実践努力する」このことこそ、この極楽地球(?)に住居させてもらう特典の為に支払う家賃なのかも知れない。
こういう精神的視野は日本人文化のなかから生じるものであろう――とアインシュタイン博士も期待を込めて発言しておられたように思うのです。
38号「科学を巨像化し過ぎる危険に警鐘を打つ」
今年八月の初め、日本人の誇りを世界に響かせた水泳の古橋広之進さんが世界水泳連盟の会議で出張されていたイタリア・ローマのホテルで急死されたとニュース番組が報じました。戦いに破れて誇りを失いかけていた昭和20年台当時の国民は、古橋さんの水泳新記録の連発で、日本人として国家復興への決意と自信を新たにググッと掴みました。それはそれは劇的で、歴史的な出来事でありました。
この訃報から旬日を経て偶然のことにロンドンに旅していた同年兵の友人からの手紙が手元に届きました。その便りの内容は、『古橋さんは世界水泳連盟の役員として要職をこなしておられたが、生前からの大きい悩みは競泳プールの“ハイテク水質管理規制問題”であった』という現代世界が抱える由々しい知の過剰に関する内容でありました。「限りなくH2Oに近い純化学物質の如き浄化水質礼賛」によってもたらされているプールの水質に就いて真剣に悩み抜かれていた古橋さんの苦慮の日々についてのエピソードがその手紙の主題でした。原子物理学者として海外でも知られているその友人は、哲学者としても実直な人ですので、古橋さんの悩みのエピソードを自分独りで持ち切れなかったのでしょう。
古橋さんは自然の川を練習の場として、延べ何千キロも泳いで鍛えられたのだろうと思います。おそらく当時の競泳プールの水質は「生命(いのち)」漲る(みなぎ)“自然”の水だったでしょう。今日的な処理過剰な無機的な透明水を貯留する競泳プールの水質を「科学的」を武器に規定する概念的に知的な水に、全身を「自然水」に浸しての泳ぎを貫いて来た古橋さんには、生命と異質な「化学水(?)」のような綺麗(・・)に承服できない憮然たる想いの鐘が自分の体内で鳴り続けていたのではなかったでしょうか?
私たちは宇宙生命という自然(・・)さ(・)をこの地球で生きて(・・・)いる訳です。人間たちがたまたま獲得した自我称賛の「知」が,極めて論理性の高い科学的研究から導かれ、その理屈から割出した「美」しい水が、宇宙生命的に「生きた水」であるという保証はないのです。科学は或る特定領域を限って自然を分割し、集中的にその中での精密な観察分析の成果を事実認識の最たるものとして定め、「生命(いのち)」という全体とは本質的に無縁の決定を「善」として行く手法を尊重するものであって、この世界でその科学性は必要なときが多いのですが、それで「十分」だというのでは決してないのであります。 プールの水質は、従って、あくまで「生命(いのち)にとって尊い」モノであって、はじめて善きものであると理解されるものであろうと考えます。
この水問題に限らず、観念的な「知」に対する疑問は、我々に最も身近な食品、特に野菜など、かつて世界大戦で使われた「化学兵器」で除虫・除菌されたものが奇麗に並んでいるのを見て、ふと、我々の体液は多かれ少なかれ農毒から自由でないことを思うことがあるのですねぇ。
私たちは深く気配りし、大地に下座し、この地球上に顕れている摂理=真理を洞察して、宇宙大の価値(生命)意識の下で、結果創出の為の技術が宇宙生命の大道に添っているのかどうかに濁りのない決断を常々行動の中に持ち込んで生きる、ということ以外に本当の生物界の未来はないと言えるのではないかと信じています。 すべてが、この宇宙生命価値の鏡に照らして、それが文化として正しいのか否かを決める判断の基準でなくてはならず、それを意図的に歪めるなら断固その提案、その行為を断る(採用しない)覚悟を持たねばならないのでは、と強く主張したいと思います。
39号『空蝉の吹きとばされず石の上』
松尾芭蕉翁は「平世則ち辞世」という遺語を残したと伝え聞く。
元禄七年(1694年)の冬、翁の臨終のあと、弟子の「路通(ろつう)」さんは“芭蕉翁行状記”を著したと言われています。その著述の中に“詠みし句にして我が辞世ならざるはなし”と生前から言っておられたとあります。
現代の若手の俳人・小澤 実さんによると、あの有名な辞世とされる句『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(めぐる)』以外にも幾つもの句があるらしいのです。臨終にかかわる記述の説明の文中に、表題の句がありました。私は、表題のこの句を読んだ途端、魂が爆裂して震えるのを覚えました。空蝉の――この句に『生命(いのち)の地響き(じひびき)』を透観したように想ったからです。「芭蕉翁の祈りの姿勢が大写しになった」、そう感銘しました。これが生を貫く人間の底力か!――と。八十路を目前にしている今日まで、自分なりに訥々(とつとつ)と生きてきたことで、やっと他者の凄味が自分の皺(しわ)に浸み渡るのか――ちょっと遅かったかも知れないが・・・まあ、いいかつ!
遥か2600年ほどの昔、印度で起こった釈迦の教え・佛法は中国大陸を経由して日本に伝来しました。千年以上昔のこと、その時に活躍した人たちによって少しずつ姿を変化させながらも佛教自体が日本に深い影響を及ぼしている事実は皆さまもご案内のとおりでしょう。
その佛法修行のシステムのなかに密教として知られている修法がありますが、そのなかに「恵印(えいん)法流」というのがあります。恵印修法の特徴は『他者に自分―-密教修行者(僧)――との差異・差別を感じさせない』――そういう立場を確立・持続するという「涅槃(さとり)」を得る厳しい修行に精進するところにあると言われています。
僧として当該修行に参座するとき①右手に佛(宇宙)を②左手に自己と大衆次元を観じて、一切の世事世情を洞察し、生類(・・)の安穏を祈る=大宇宙の心を自己に蔵納し、同時に自己を大宇宙の「時空」に入我我入せしめて涅槃(ねはん)(さとり)を得るというのだそうです・・・?! 「空蝉の――」の句は生命(いのち)の凄さと同時に坦々として流れる谷川の水の如き慈愛の恵みを顕(あらわ)していると―――私は、今また感動するのですなあ!!
宇宙物理学的情報に依れば、太陽と地球の質量比は凡そ(およそ)700,000対1ということらしい。即ち、太陽は地球の70万倍とか。体重1gのテントウ虫が地球なら太陽は700Kgの牛。テントウ虫の上で住んでいる私たちは全部、なんの彼の言うたって宇宙空間では“そんだけ”のモノ。心魂を支配する宇宙意識を体内にタタキ込んで、大宇宙を観るのでなければ、生命(いのち)が悲しむ。地球しか観えない拡大鏡を手離せば、宇宙大の生命(いのち)が自分の中に観えます。
宇宙空間のなにもない空間に地球が作られ、岩に水に、宇宙力のすべてが投入されて生命ができ、生物界が完成しました。今、私たちは生をここで行っています。無意識に呼吸ができます。心臓も動いています。微生物は体内でそれこそ24時間眠ることなく活動してくれています。何かに生かされて生命を継いでいると言うしかありません。感謝が湧いてくるというのは、こういう想いを辿ればだれもが経験できることと信じます。
地球上の全文明・文化のお陰で私たち人類が一緒にひとつのイノチを生きているという視界の開けた所見を持つことができるようになりました。それは、そういうものを通して私たちの魂が磨かれて高次元の気づきを獲得し、魂の映像としてのビジョンの故に意識を宇宙の果てに感謝でつなぐことができる――そういうことのために異常に発達した頭脳をいただいているのだ、という想いを馳せずして、どんな価値観も意味を失うと考えてよいと思います。地球上の一切の景観、生物の営み、いわゆる資源の一切はこの大目的のために宇宙が用意して下さった価値そのものと考えられる訳です。だからこそ、一木一草に無駄があるはずがなく、それぞれが私たちと魂や意識を分け合っていると実感できるのではないでしょうか。生命がこの地上で現象していることの意味はこの中に求められます。
凄い宇宙で生(は)える風景が私たちの前に、その時晴れやかに拓(ひら)けるのではないでしょうか!!?
40号「心の底の忘れもの」
この世に生を享(う)けてこのかた、言葉や仕草など色々と諸先人たちに教えられて今に到りましたが、平生、余り気に掛けずにいることは萬とあります。いくつかを記憶から釣り上げてみましょう。お付き合いください。
太平洋から紀伊半島の山々を右手に見て紀伊水道を内海に進むと西日本の懐に入れます。太平洋戦争(第二次世界大戦)も終焉しそうな昭和20年3月早々、私の年代の中学生たちは本格的に軍事訓練に入りました。その一方で、大阪出身の私の場合、高台にあった陸軍歩兵八連隊の兵隊さんと一緒に動員され、紀伊水道を下方に望む山腹に裏側から短いトンネルを掘り15㎝加濃砲という大砲を要塞よろしく据える工兵の真似ごとに従事していました。夜は農家に宿泊し、それでも毎夜色々な教科書を使って勉強もさせてくれました。
20年6月15日、アメリカ空軍B29爆撃機400機以上来襲し、3回目の大阪大空襲がありました。2万軒位が1日何波かの空襲で灰になるのですから10万人以上の犠牲は当然でます。殆どの天王寺区の家々は焼けつくされたという情報が和歌山に入り、翌々日、大阪へ帰ることになりました。一旦、中学校(旧制)に入り点呼の後、徒歩と電車で別れました。家はすっかり灰でした。焼け跡で、親爺さんが唱えていて覚えた般若心経最後の『ぎゃあてぃぎゃあてぃ、はらぎゃあてぃ、はらそうぎゃあてぃぼじそわか 般若心経』だけを何十回も唱えました。何故、そうしたのか分かりません。憶えてもいません。自分が住んでいた家の付近一帯、何もないのですから、家々のお葬式のような気分だったのでしょうか?混迷の中、夢中の出来事でした。でも、戦争体験はこれ以外にもあり、何事に於いてもがっかりすることはない。すべては、「今」が始まりだから――と、しっかり学び得たことが苦難がくれた慈悲だったのかと今にして思います。
職業上から“微生物”という視点を眼鏡にしますと、ちょっと違った思いが浮かんでまいります。即ち、地球は人間だけのものではない、という当たり前のことです。しかも、地球の主役はヒトではなく、微生物の大群です。人間は、おなかの中に微生物が100兆も200兆もいて、食べたものを栄養に噛みくだいてくれるのでやっと生きられ、皮膚には平均して30~40億の微生物さんが生活してくれているので守られていることが知られています。
古くからある森には何十種もの樹が共同生活をして地表の土壌が雨で崩流しないようになっています。その根っこにも、1㎡に10~15兆もの微生物が、他のもう少し大きい生物群と棲息しています。何十種類もの小動物(蟻やトビムシ等)のことは「緑したたる新緑の候」なんていう文章にはカケラも登場しません。けれど緑の演出の大主役は勿論太陽ですが、太陽を含む大宇宙のエネルギーを配るのは、微生物を代表とする小動物の大群です。
分かっているだけで凡そ175万種の生きものが地球生態系(エコシステム)で生命(いのち)を現象しています。CO2問題で、人間たちは環境問題に対応している姿勢を示しています。しかし、地球開闢以来、今も更に生態系の生物を傷め続けていることは、一体全体どう反省するんでしょうか。日本という「国家(くに)」を思う志(・)も、他者を慈しむ強く優しい徳性も、私たちは絶対に忘れることなく、我々自身を深め、鍛え続けなければならないでしょう。
人類は、もう4千年も4万年も、いやもっと昔から森、深々とした森によって進化させてもらいました。環境保全の第一歩は他ならぬ「森」の回復、森の生きものの保全に意を注がねばなりません。真剣に森の深化に心掛けると、そういう体験を積み重ねた子供たちが大人になったら、身近な生物、無生物、近場の人間、他者は言うに及ばず、路肩の小石にまでも、キメ細かい気遣いの「何がし」かを注ぐような人になり、本当に強靭な志(・)で人間社会をリードしてくれるように思うのです。
人生は岐路の連続であります。私も随分と世の中に迷惑もかけてきました。行き詰まりを何回も体験して、その都度「泥」を心の中へ洗い落として来ました。不思議に、それでも、他者を信じることができ、その都度一歩を踏み出して来たように思います。天地人のすべてに感謝の惟(おも)いは激しいです。これが人生なのか?!と自分の時刻表で生きようとした頃もありました。その都度「地球時間で生きるんだ!」と、“地球さま”に 諭(さと)されて来た、と思っています。
化学物質の開発は100万種に余るとか!!便利なことも沢山あるでしょうが、どうでしょう?地球宇宙の自然に添って生きましょう。春はもうすぐ、そこで両手を拡げて私たちを迎えています!!気分でスキップ、心でジャンプ。
41号「人類と文化・心のめざめ」
昭和54年出版の岩波「広辞苑」に学ぶと、文明とは「人知が進んで開けた世の中」。特に生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均等などの原則が認められているような社会・・・とあって、蒙昧・野蛮なものの対岸にあるような印象を提示しており、『宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての秘儀の文化に対し、人間の技術的・物質的所産』としての文明という概念を対置させる場合もある──とも説明がありました。
さて、人類が心の底で問う人間とは如何なる「生きもの」でしょうか?
20世紀末、国連のWHOが人間というモノの定義にスピリチュアル“霊的”という語を追加することを決めました。心は体とつながって魂に支えられて居り、体は心や魂の具体的な感性的記憶の宝庫であり、発現する動的手段であります。「心身一如」という言葉がありますが、その凄さは「宇宙神」のお創りになった超精密な機器ですから、昔から与えられた性能を磨きぬいた聖人たちは、特段の超近代的性能を誇る機器を使わずとも、大自然を観て、その中に法則を考え、見抜いて広大にして深い知見を今に遺しています。深く分かっている訳ではありませんが、多くの智者に学べば、佛教経典には「宇宙の法則」がずらりと並んでいます。勿論、現代の科学が教える宇宙のルールも沢山あります。しかし、それらは即物的、即現象的なものであり、霊的な価値については無明であります。
毎度申し上げている如く、私たちの生命(いのち)は「宇宙の我々に対する約束」でありまして、その内容は“宇宙の一瞬一瞬は最善である”ので、自分を好きになることで、宇宙の真理としっかりつながることになるのですね。自分を好きになる─というのは、自分に執着することではありません。国を愛するというのは、結局“宇宙の約束”によって私たち「地球生物」に与えられた「地球」を大切に想うことなのですね。少なくともそれが本来なのです。何と言いましても、この浮世、この娑婆は、今や何十億人という人間の欲望が放つ執着の炎で燃えていますから、“虚ろ(うつろ)”な思いも少なからずありますが、私達は日本人として、この列島に生を享けた(うけた)人間として、他者共々(ひとさまと一緒に)、この奇跡としか言いようのない地球を“自分と区別できない生命(いのち)”として保全せねばなりません。
この地球世界では、時として自己中心の眼鏡をはずしてみないと、固定観念や慣れに流されてしまい、雑事から真理を釣り上げて自分の生命に繰り込むのは難しいと言えます。動物である我々人間が過ちの少ない見解を持ちつづけて行く良い方法の筆頭は、
①地球の生命発生史的な地点からモノゴトを考えてみるということではないかと思っています。
② ①を換言すれば、モノゴトの根本は何と観ればよいのか、と心で探るようにする。
③重要な問題には何故こんな問題が私に巡ってきたのか?と、その運命の舞台を楽しんでみる──そうすることで先入観が改良されると思うのです。
即物的に自我欲が動かない場合は天眼鏡を架けたように、周囲や目先が鮮やかに見えるものです。先人たちは、特に、この欲を一時、抑えて考える大切さを言葉にのこしています。科学は専門に偏りすぎる欠点が無いとは言えないので、直感や祈り、感謝の中から自分や自分たちをとり巻く条件群を動員して総合判断することが大切です。それに何よりも、こういう習慣を身につけようと努力していると不思議に幸運なことが身近に起こってくるようです。
大宇宙の無限空間は心魂の世界と思ってよいのではないでしょうか?夜空を眺めて星と星の輝きを見れば、星間の拡がりが半端でないことに気がつくでしょう。人類は人工衛星を飛ばして宇宙のあり様について調査しています。しかし、若し人類が将来、巨大な人工衛星を製作し、宇宙空間に高らかに打ち上げたとしても、そこで岩石が生まれ、その表層で生命の循環が行われることは万に一つもない。言うまでもなく、これが真理というものでしょう。人間の未来は地球にしかないのであります。生命の不思議におののく意識を持って地上生態系を大切に、感謝で過ごすしか人間の生きる道はありません。
知的生命体とは、『自分とは何者か』を問う存在であります。ここが原点であり、生きる生命の源流です。ここに立ち還って、あらゆる答えを探すこと、問い続けることこそ人間という生きものの本性(ほんしょう)でなければなりません。
この真に大切な日常の地盤にかかわって、20世紀半ばに没したフランスの哲学者ベルグソンは言葉を遺しています。『生命に関する無知が、人間の知恵の特徴だ』と。
(続く)
42号「人類と文化・心のめざめ(その2)」
この地球というボールの表面積は凡そ500兆㎡。坪に換算すると、海も陸も合計で約151兆五千億坪ということらしいのです。そして、地殻・海洋・山々の全重量は或る発表によると約100兆トンというのですなあ。ちょっとピンと来ませんが、こういう凄く大きいボールの地球が支えうる有機物(生命体・動植物など一切)の総重量は凡そ1兆トン。動物・植物(魚介類は勿論)の合計を秤に載せると、約1兆トンということで、ここで忘れてはならないのは、その半分ほどは微生物だ、というロマンティックな話です。
地球上の生物界が全部一緒になって現象している姿を「生態系」(エコシステム)と呼んでいますが、この世界の生物群の各々は、生活・生命現象のすべての基礎を微生物世界に置いて生きています。地表の水域の汚れ、生物たちの摂食・消化・排泄物など、凡そ生きものが吐き出す汚れは、すべて(・・・)微生物界で分解浄化されます。その部分の生命力が生物生産の方向へ向けられて、上層の生物界に利用され、夫々の階層で生活力が回復されます。こういう仕組みは、所謂、食連鎖(Food Chain)と呼ばれ、その生命系の有りさまを総合して、「循環と共生」と呼んで大切にしよう──と呼びかけているのが、今日の地球環境問題の保全ということの核心の構図であります。
ここで、私たちが失ってはいけない大切な認識は、「この生命現象の世界」には、本来、“自然現象以外の現象”はないということであります。不自然な物質や毒性物質が自然界に投入されると、自然はそれに応じた生命現象をします。その自然現象の巨大で普遍的な基礎(・・)は、豊富で活発な(宇宙摂理が定めた)微生物の活動であります。彼等の活動が殺虫、殺菌剤や化学肥料などの残破片で阻害されることが分かっています。長期にわたって人造物質によって自然現象が余計に促進され過ぎたり、挫折したりすることが重なると、徐々にその影響で昆虫類やカビ類など何千、何万種にも及ぶ不可視の生きものたちの働きが歪められ、やがて、天候の乱れや、気象の不順が起こったときに、一挙にその弊害が表面化したり、人間たちの埋もれた不健康の因子となって残ってゆくと考えてよいでしょう。
循環とは、『生態学的輪廻』の法則で、これこそ「生存の基本原理」です。「ゼロ」の起点から値を変えながら時空座標を移動、また「ゼロ」―あるがままの、その次元のあるべき元の状態に還る大自然の運動を指しています。つまり、草や穀物をヒト・動物が食べる――人や動物の排泄物や枯葉などが肥料となって再び草・穀物が生ず。人間が化学肥料を自らの糞尿に変えて田畑に撒くようになると、糞尿の処理がいい加減になり、生かすのでなく捨てるという思いになります。正しく捨てれば、正しく甦ります。後始末が「ゼロ」の起点なのです。森から多量の資材を得、植林を丹念にせず、自然再生の手続きを怠ると、川・沼・海が汚れ、魚・貝が死ぬ。再生・循環を汚れた水でするため、食料の自然再生力が減り、動物たちの健康が傷つきます。手間をかけて後始末をして有り難く大地に戻せば全体として、うまくいきます。
人間界の隆盛、栄華を求め続けて、後始末を忘れ、節度を忘れると、自己中心の毒が流れ、人々の心はひ弱になって、悪いことが続く悪循環が生まれます、一時工夫したように見える科学技術も、自然に対応する時、長い目では自殺行為になっていたりします。大自然の法に融和できない矛盾が、人間が考える合理性の中には沢山ひそんでいるからです。
普通、大地には1グラムの土に、凡そ1億から3億くらいの微生物が棲息しているのが健全な証と考えられています。10アール(1反歩)の畠には700Kgほどのカビやバクテリア等の微生物が居ると専門家の報告にあります。年がら年中、微生物群が消長をくり返している訳ではないのですが、野菜だとか、稲などの成長と均衡しながら、何十種類もの微生物群(原生動物を含む)が、宇宙・地球の法則に添って生きています。こういう「目に見えないが確かな働き」は、私たち人間の日常生活に於ける心や感性の働きと区別がないように思えます。即ち、それは法則なのですね。柔軟思考に立てば宇宙・生命の法則は矢張り微生物によって運用されているように見えてきます。
即ち、微生物の大群という地球生態系の「土台」に意識を寄せると、私たちの生命現象に宇宙意識という「存在の法」が現象する姿そのものと思えて来ます。私たち一人ひとりは、矢張り宇宙の仏なんですね。こう信じると精神世界に溶け込んでいく奇妙な歓びが自分の中で拡がっていくようにも思えてきます。こんな考えに浸った時には、苦しい生活のなかからでも「誇り」を感じとる満足感に出逢える、と言えばキザでしょうか?
(続く)
43号「いのちの序列化」
「いのちの序列化」という命題は、人種差別というコインの裏のデザインではないでしょうか。蝶々、バッタ、トンボなど昆虫は人間たちの日常に於いて季節の空間に描くたのしみの絵画のように思ったり、子供たちの此の地球生命社会に巣立つ訓練の材料のような印象を我々に与えます。ところが、世界で問題になった“蜜蜂”行方不明事件のニュースは、「ネオニコチノイド」という“無臭の神経毒”の農薬がどうも原因らしい、とわかって来て、日本を除くヨーロッパの先進国は相次いで使用禁止命令を発動しました。ミツバチの不在が全世界的に定着すれば花は結実しません。人間たちは忽ち(たちまち)食料に困ります。
時には「青虫」に野菜が食い荒らされて困るのも確かですが、蝶々という小さい虫を自分たちと同等の生きものと観る優しさも、地球生物の一員たる人間が大いに努力して身に帯しているべきだと言える「気付き」は、典型的に今回のミツバチ行方不明事件に触発され、改めて、自分たちも小さい、小さい生物群のお世話になって生きているのだとする自覚がもてることになる訳です。
難しく言えば生態的地位を無視したり、バカにしたりしていると、この生態系(エコシステム)では、やがて自己滅亡を招くという真理をしっかり心に留めることが大切なのですね。宇宙生命という根拠から私たち自身を眺めて冷静に考えると、38億年ほど昔に発した「生命」には一連の系統性が存在していて、その意味では優位、劣等という考えは宜しくない、という認識が“文化”と心得ること肝要です。数億年かけて地球環境が大きく変化を続けて来たので、生物界には「多様性」が厳然として存在しているのだと理解して、日々の生活技術に活かして行くのが良いのです。こういう理解、こういう心をもった生活術こそが文化のモデルなのですね。
こういうことが言えるのは、生命の遺伝子・DNAが微生物からヒトまで38億年ほどの間、全く不変で、電子(エレクトロン)も陽電子と呼ばれている物体の基礎となるものも、宇宙の隅々まで同じ質量と電荷をもって充満し、過去から未来にかけても何ら変わらず同じであるからです。宇宙空間のどこか特異なところで、何らかの異変が生じて、物理法則が新しい規則をもつようなことになるとしたら、その都度、宇宙は大爆発して生まれ変わらなければならないでしょうから、宇宙の神さまにとっても、「法則」という原点を変えることはできないでしょうね。
生き物としての自分、生かされ導かれて、今日ある人類。「今」というこの「今」に日々自分を愛し、他者を思って、国を想い地球を少しでも深く考えようと工夫しあって生きるのが、生命をいただいた宇宙・天地への義理というもの。そんなことでも「悠久の宇宙生命力」、「大創造力」に、その鏡に映し入れて自分と自分の周辺を考えてみる習慣に少しでも踏み込めば「ものの考え方が大転換」します。そうすると人間中心の考え方が、機に臨んで「地球生物界中心」のモノの見方が自分の中から湧いてくる筈です。そう信じています。「今」を機に続けてみようと工夫し、習慣づけていかれたら心が大きく落ち着くように思います。それが宇宙の創造力「星々をつくる宇宙の力」と同列の大きな『価値』であろう、と気付けるようになると思います。どうでしょうか?真に落ち着いた生活とは、そういう心境に到ることではないかと考えます。
人間社会の繁栄・進歩だけでなく、過去何世紀にもわたって無視されてきた他の生物・大地・水なんぞに正面から下座しつつ、宇宙全体系の中で調査、研究、思考する姿勢(意識)を具体的な感覚の内容として持つよう心がけなくてはなりません。もともと、科学は人間が定めたある立場から手が届くところの事象を事実として、それらを基に知的認識の体系を作り上げたものであり、それを絶対視した結果、今日の環境崩落が地球的に拡がったという現実を忘れてはなりません。我々人間という生き物はその分野で何か間違いを犯してきたのではないかという思いが大切です。宇宙摂理は科学的論理と、一種の悟りや直観の集合であり、仏法でいう覚醒(さとり)のような部分を大きく含んでいると思います。
何を見ても、いつでも(娑婆・現世の不条理を超えて)全体―或いは最も根源的なものが、透明な背景として自分の行為を包んでおり、その中で「一部」を拾っているのだという意識を外さず、その事実を読み取る時、はじめて「本当にワカル」のではないか。「わかった」というのはそういう実感を言うのではなかろうか。自然を決めるのは自然である!!という深遠な摂理に素直になり得ず言葉の定義・データ・出典の根拠等という優劣のみを競うような科学的価値観を中心に時を浪費した結果、今日の環境汚染や経済不況・人間不信の傾向が拡大したと考えるのも一つの正論と言えないでしょうか。
44号「咄嗟の呪文=宇宙神のご臨席」
昔時からの「教育うた」に次のようなのがあります。ご存知の向きも多いことと思いますが、『明日ありと思う心に計られて、今日も空しく過ぎしつるかな』と。また、『明日ありと思う心のあだ桜(ざくら)、夜半(よわ)に嵐の吹かぬものなかは』も。色々な事情を心に抱えて、ここを先途(せんど)とけんめいに生きることを先人、親から教わって大きくなりました。その割には、どうもこの私も恥じ入る生涯を送って来ましたので、何のことはない、反省と後悔の連鎖に、今も手に汗を握っています。一日一日、明日は無いのだ、夜半に死ぬかも知れない、巨大地震があって生を終えるかも知れないのが人生というものだ。――今日、否、「今」のこの一瞬こそ「生」の現実だ!!――そう思って生きるのだ、と再三、教えられ、学んだつもりです。
それでも、不意の救急時の際、『咄嗟(とっさ)の呪文や薬』は生活の日々に求められるものです。而(しか)も、それは生活の日々に重ねられ繰返されて本人に浸透した信心や習慣の故に心にタタミ込まれた反射行為の一環になっているとき、値打ちを発揮しますなぁ。
人生、その時間は、たかだ五十年から百年ほど。五十億年の太陽系地球のいのちからは一瞬の時の飛翔。この社会に生かされている空間とて、無限の宇宙の拡がりからすれば、チリの横っ飛びのようで、自分が生きていると思うのも、勿論、本人の勝手でありますが、大自然の一隅で生かされているという真実、摂理を毎日、毎時、心で確認するべく、自分に言い聞かせること肝要と心得て、実感しようではありませんか。
本当に考えてみれば、何億年、何十億年前の銀河系では・・・と私も話はしますが、そんなもん、よう解(わか)ってません。“話”の世界ですから気易く言えてるんです。これと併行して「小宇宙」は我々に譬(たと)えてみれば・・・と、おっしゃる方々も居られます。この言葉にしても、皆さん、毎日、毎時、思いつづけ、わからずとも解ろうとして思いつづけ、考えつづけていると、何かの拍子に、咄嗟の言葉として思ってもみなかった名言、単語がヒュイッと飛び出して、自分でもびっくり(吃驚)することがあります。この“偶発語”は一種の呪文なんです。
二千五百年余り昔、お釈迦さんは自国を説法して回(まわ)られたとありますが、むづかしく言ったことを、のちに軽妙な言葉の繰り返しで、「貴方がたは、咄嗟のときにこれを唱えなさい。そうすると苦しみがやわらぎ、苦悩から救われるんです」と言って呪文を与えられたそうですな。これも、また聞きのまた聴きですが、そのうち、最も長い、最も、この日本でも沢山の人々がお唱えしているお経、般若心経の最後の一節が有名です。即ち、曰く『ぎゃあていぎゃあてい、はらぎゃあてい、はらそうぎゃあてい、ぼうじそわか』と。不動明王さまの超短い呪、『おんけん、そわか』も。
何か、一つ、二つ『咄嗟の時に発射する呪』をもっていると、宇宙の奥の間から強く支持されて、ここで生きている!と空想できるようになってくるように思うんですが。
強く、心中で呪文を発する訓練を自分の日々の生活から忘れないように続けていると、何故か『神のご臨席』を給(たま)わって生かされているように錯覚できるようになるんです。
「咄嗟の呪文」と言うも、そんな特別なことではありません。左脚を出したら、次に右脚が前に動いて、目的地に歩いて行けるように、四六時中、自分全体のどこかで試みていりと、そういう祈りのようなものが、タタキ込まれてくるんです。そう思います。
人間が、時によってよく口にする精神世界、無限界、無限の時間等々は人間界の決めごとです。呪文になるほどの「気合」のこもったものは、声にも、態度にも「爽(さわ)やかな凄味」があるものです。正に、それが「呪(じゅ)」なんです。宇宙力と一体になった瞬間と思える気迫が、心に静着する瞬間です。正に「神のご臨席」「降臨」の瞬間です。その姿が、私たちが宇宙生命と生きている証(あかし)なのではないかと思っているんです。
(みなさん、ちょっと、微笑(ほほえ)んで下さい。)ありがとうございました。
45号「源泉混々【自然の優しさに生命(いのち)の雄大さを想う】
昨年末に現代書道の父と称せられる比田井天来の書を信州で見る機を得て、大いに感動した旨の年賀を友人からもらった。写真家でもある彼は、その文中で題にさせてもらった源泉混々という一節を、謹賀新年の真横に少し小さい字体で書いて呉れていました。
私は咄嗟に、平成23年初頭の「エリオット君」に捧げようと思い、胸中に納めていました。地の底から「こんこん」と止むことなく湧き続ける、あの透明な清水は、誰もがその有りさまを心に描いて、生命(いのち)の清冽な息吹(いぶき)に力強い清涼感を覚えられるのではないでしょうか。
西暦紀元前5世紀に発した戦国時代の中国の哲学者「孟子」の著述の一文から引用した言葉で、『源泉湧出し、不舎昼夜(昼夜をおかず)』と読むらしいのですが、「善き心が滾々と湧きたたせるよう努力しよう――そうすれば、ついには花開き、有徳の士となることができる」と詠った詩だそうです。地表の様々な国々で、絶え間なく争いがおこっていた歴史があり、清澄な山間の泉も絶え間なく湧き出て流れ下る・・・とは、何故か人間の業(ごう)の深さに些か(いささか)ウンザリもしますが・・・。
人類は遠くマケドニアとペルシャの戦い以来だけでも2500年余り地球のどこかで戦争に明け暮れ、近代に至っては科学とテクノロジーに目を奪われ、私たちの手では本来コントロールできない領域まで「欲界」を拡げ、この星を傷つけてきました。何千年も休まずに。この星には、生命現象、人間たちが生活文化をつくりつつ歴史を刻むにあたっては実に大切で、充ち足りたものが驚くほど揃っているのに!!
地球上の陸地面積約135億ヘクタールの1/3近くは、もう既に砂漠になっているという報告を読んだのは、もうしばらく以前のことですが、将来、砂漠化するであろう候補地を含め専門筋が並べた数値は以下のようであるらしい。
(1) 既に砂漠化に突入して了っている 8億ha(ヘクタール)約6%
(2) 砂漠化傾向の強い地域 16億ha 約12%
(3) 砂漠化が非常に高くなる見込み 4億ha 約3%
(4) やや砂漠化が心配な危険域 17.5億ha 約13%
それ以外に、毎年地球上では数百万トンもの土壌表土が失われています。大地があっても、本当に生命論的な食糧生産の哲理が無い為、乾燥や塩害など開発・開拓の拡大で、分別なき灌漑、放牧、極端な化学物質の名を持った肥料、農薬で表土が退化するという被害の報告も少なくありません。こんな状態で、世界政治のなかで「レアメタル戦争」を、あれこれ戦略的攻防を企画している世界―人類のありようは、それで良いのでしょうか?
科学的な知識というものは、非常に確実なものから、殆ど不確実なものまでの無数の理論の雑多な集合体系として存在しています。「絶対的な確実性」を保証するものは人間世界には殆ど存在しない、と心得ておくべきが正しいのではないでしょうか。過去の“超偉大”と思われている科学者たちは「科学するに当たって疑問の余地を残すこと」は極めて大切だ、と言葉の端々に遺しておられます。
大きい進歩を遂げたと言っても差支えない歴史を人類は展開してきた、と言っても別に罰があたるというとはないでしょう。が、年頭にあたって、古代から今日まで、人類が得た智慧、知識の全部を集めても「生命(いのち)」や「宇宙」の存在の意味について何ほどのことも解っているとは言えない、と告白すべきではないでしょうか。
非常に端的な話が、『地球を守れ』とは人間中心主義の傲慢(ごうまん)ですし、今の科学技術は至る処でゴミを増やしているし、地下資源を枯渇させようとしています。もう一つ付け加えると、一握りの人たちを除いて、たしかに精神も肉体も不健康になっています。各国、各グループのリーダーたちは感性と直観力を養って、この地表で「生存」させていただいている今(◎)をあらゆる地球生物群の先祖たちすべてに、毛穴から体液を滲みださせて昼夜を分かたず混々と感謝の汗を天地に捧げる「つもり」になってみる「努力の日」を自分でつくって生活してみてはどうでしょうか!!
少々、生意気なことを言い過ぎましたかな。でも、微笑んでお許しください。
とに角、『皆さん、前へ!進め!』です!
46号「宇宙意識こそ明日を拓く威力」」
熊本の友人からの電話では、自宅の傍(そば)の田畑に朝から幾百羽とも知れぬまっ黒の烏(からす)が騒ぐので不気味な胸騒ぎを近隣の人と話していたら、この地震だったそうです。今度の巨大地震、大津波で、地球環境という名の現象には、人間の思惑を超越した力が宿っていることにわずかの疑問も許さないことが呑み込めたと言えるでしょう。
豊かな山林、豊饒(ほうじょう)な海という生態系の岩盤に支えられた豊かさを、真剣に感謝で我々は日々過ごしていたでありましょうか? 「科学」「化学」「技術」の凄い進歩こそが未来における人類の幸福を約束するのであって、精神は否定しないが「物質」の豊かさが経済の繁栄をもたらすのであって、精神の崇高さを買いかぶるな、との声を正しく(・・・)制御(・・)することが必要ではないのか!津波の凄まじい破壊力の映像で私たち一人一人が強く心に刻むのが正常な生命(いのち)の教訓と言えるのでしょう。どうでしょうか?
こういう悲劇に見舞われると、理屈でも、知識でもなく、「とに角、お陰さま」ということを教えられます。老若男女、何とか自分流にできる貢献をしたい、と復興への道のりに向かう覚悟の数々の声を聞いて、こみ上げる勇気をいただきました!皆さんも夫々に心の引き締まる「一緒に生きている仲間への熱い応援の気持」を湧きあがらせられたのではなかったでしょうか。
今回の原発の事故は実に不幸なことでしたが、改めて思いました。人間は徹底して謙虚にならなければならない――と。『地球さま』が生命(生命のあらゆる現象)の産みの親であり、解体の担い手であり、生命を“本気で”認識するには、あらゆる歴史的情報―勿論、科学・哲学etc.文化の一切を含む― を通して、判断する吾々の「心」が(直感・感性の多能力性を通して)認識の束を握っているのだ、と本当に分からせて頂きました。刃は“束”を握る人間の心で振り下ろされるのであって、科学理論、機器が進んで研究の精度が高まっていくことが、自然の「実体」を掘り下げる事ではないのだ!!としみじみ思いました。
私たち個々人は、世界歴史の中で成熟して行く「全体」の中に、自己を発見し、道徳を明らかに発現しようと意識することが、真の徳目と考えなければならない“時”に生きているという「思い」が大切になっています。本当のところ、今や、心の深いところで「地球と人類」ということを道徳的規範に思い入れないと、「己」は何をなすべきかが自己に問えない、小さくなった地球世界を実感しなくてはなりませんね。アラブも、アフガニスタンも昔の隣町のように近い社会になりました。
ただ、問題は、ロシア、中国、アメリカ、等世界における大国ほど、未だ「自我」に執着しているのでしょうか、「古い全体」が「新しい全体」に正しく進化しておらず、中小国は、今や世界全体が人類の良心の全体を受容する骨格である筈なのに、それに気付く教育が未成熟なままなので、道徳基盤も必然的に脆いものと言えなくもありません。
世界全体を常々「己」の考えの中に取り込んで生きるべき時代が、もう其処に来ていますし、大国は後進的国家群に、そういう事実を他の世界の沢山の情報と一緒に伝え、より高い次元の道こそ、明日の世界平和共存の確かな道であることを、そして、その道こそ「中庸」の道で、そういう後塵を拝する国々が認め歩む道でもあることを知らしめて欲しいと思うのです。
全体(人類)は「己(個人)」の中にすべて賦存するものであり、世界の直面する問題は“二者択一”というか、勝者と敗者を選ぶようなことで解決されてはなりません。宇宙生命の「自己」を勝者とも敗者とも選定ができないのが宇宙神の創造された「生命劇」であって、勝負の筋書きが若し(もし)課せられたとしたら、全部が敗者でなければなりません。
生命(いのち)の保全も、その生活劇も、個々の「ヒトとしての能力」も、その他のあらゆる個性も、すべて「宇宙神」の造型の結果でしかないわけですから、ヒトそれぞれの能力でもないものを売って、「比べて勝ち負け」で規定するのは、考えてみれば、すべて人それぞれのものではないのですから「愚行」と言えば(宇宙意識という物指しでみれば)最大の愚行なのですね。こういったことを深く理解ができるヒトたちから――自己と他者の壁を超えていき、対話と平和協働、共生の世が拓かれて行くと言えるのではないでしょうか。
今はまだ、無理・無駄のように思われる思念・努力こそ、今のこの困難の先に希望の図を生むのではないかと思うのです。まだ来ぬ日、見ぬ時世の為に、共々に踏ん張って宇宙生命の彼方を信じて参りたいと思います。
47号「生物は『気の器』」
人と人、人とペット間にも野菜づくりにも、愛が途絶えれば、其処は薄暗い恐怖の帳(とばり)に包まれた孤独の世界となること必定でしょう。「生」の意味が消えます。生物の霊的エネルギーと呼べる実相の世界が消滅してしまうように思います。人間という生きものがこの日本でも生きています。ペットを飼っている人も沢山おられます。個々の生命生活を足し算しただけで日本が出来ているのではありませんね。個々の「生きもの」の間を想いによって、愛によって、慈しみによって埋めることではじめて「日本」になるのでしょう。
震災地復興に関わっても、日々の各地での生活においても眼で見る足し算では「日本」になりません。「社会」になりにくいです。技術に関しても、科学的研究についても、社会経済の運営についても、我々の先祖たちは幾多の自然災害をのり越えて、その時々に結論を出して歴史を創って参りました。今回の大災害に似た不幸を、千年も二千年ものり越えて来たことでしょう。
今日の傷ついた、余りにも大きい被害を写真などで見て、鳥瞰(ふかん)してみますと、今日の政治騒動の何と罪深いことかと思うのですなぁ。宇宙に善悪などある筈もございませんが、人間と人間の愛・思いやり、利他心が途絶えると「生の意味」が消えますねぇ!!政争ばかりに眼を奪われている国会の「ある部分の人々」は『自然の営み・恵み』で呼吸ができていることを全く(・・)忘れていますね。
それはさておき、現代の西洋式科学にどっぷり浸かった科学者たちの多くの、生命(いのち)の本当の姿を想定することを忘れ去っているかの如き行為に大いにがっかりしています。「生物」はどんな種も、(人間は勿論ですが)すべてが一種、何と申しますか、深い意味をもった霊的エネルギーを内蔵している「気の器(うつわ)」だと、私は若い頃から信じ切って参りました。従って何十億個という「気の器」が今やこの地球を覆っています。夫々が全て「他」の環境となって生存しています。環境は地球自然の環境ばかりでなく、 人間も、ペットも、昆虫も、ライオンも・・・すべて互いが環境となり合って生きているのが「自然」なのです。所謂、山野・湖沼・海川などだけが自然ではありませんねぇ。
それと全く同じ理屈で、人間の場合は地域の狭い社会で、例えば日本なら日本、関西地区であったり、東北地方であったりしましても「言葉」という、私たちをとり巻く“自然環境”は大いに曲者(くせもの)なのです。普段は気づかない環境ですが、空気のように流れ、飛び交う言葉は、霊的エネルギーを時として「あらわ」にもって流れるものですから、その意味とか、概念が社会の人々、夫々に理解されているようで、そうでもない色合いや音で認識を植え付けていきます。
今般のことで言えば放射能とか、安全神話とか、ヨウ素(I)やセシウム(Cs)の核反応だとか、わかったようで何も解らないでも、聞きなれてくると、「頑張れニッポン」や「国際平和」「地球環境」「被災地優先」のように、よく味わいの解らない単語が、毎日耳にすることでスゥーつと体に吸い込まれて入ってくるようになりました。こういう言葉には味わいや、温かみがないのですが、箸やスプーンのように効率よく意向が伝達される道具になります。プラスティック・ワード [plastic word] という部類の言葉なのでしょうか、肌の「ぬくもり」のような温かみは望むべくもありません。しかし、現代の忙しい社会では「処世語」というのですか、「効率語」というのでしょうか、とに角、状況を端的に発信し、表現するには便利な言葉ではあるのですね。
このプラスティック語と同様に(独断ですが)“おーぃしぃー”“うわーっ、いい匂い”、“嫌な臭いを忽ち「カット」”等々、ふわーっとTVを観ていると耳が型にはまってゆきますなぁ。人間も動物ですから、訓練されるともなく訓練されることで、何の抵抗も感じないままに宇宙生命論からは「はみ出した」世界を、即ち、プラスティック世界を自然摂理のままの世界と融合してしまっているかも知れません。
これが食料の生産の基礎である農業における「土づくり」「堆肥づくり」等などに、あるいはまた、野菜各種の生産に用いられる化学肥料や無臭農薬のように、知らず知らず、自分たちの生命力や自然への深い敬意を生活のなかで置き去りにしてしまうことにつながっていないとは言えませんので、そこは問題でしょうね。
平成23年3月11日の大地震・津波の災害は生命に対し、生活に対し、自然とは何か、自分たちは何者なのか、環境と向き合うとはどういうことなのかを皆で学び合って、将来世代へ送る言葉に愛のぬくもりを忘れないようにしなければならない大切な機会と考えます。日本文化の“生命霊力”とも言える活力を魂に送り込んで、絶対的生命観をもって崇高な日本の山野に向きあい、自己改善の誓いを立て行動して参りましょう。
48号「自然の偉大さは人間の言葉を超えている!」
自然は偉大で、尊厳なる価値に輝いている。軽く言いえたとしても、実際は、人間の言葉では到底及ぶことのない偉大さであることを、私たち人間は何時でも忘れてはなりません。淡々とした心境で、秋空の星々に心通わせつつ天空を見つめてみると、昔どこかの本で読んだ「死ぬことにも喜びを観る」という心境が、ほのかにではあるが、何かしら、わからないこともないなあ!!と、ふと思ったことがある。
昔流に「数え年」で言うと、既に満82歳になる老齢者の心境という「改まった姿勢」の言葉でなく、昔の武人のある部分の人たちが割に例外なく「死」をおそれることがなかったという物語を、今では素直に、『うん、うん、なるほど』と思える自分に、或る種の驚きを感じますなあ。・・・そんなに格好つけるなよ!!と叱責するような声も勿論、どこからともなく心に届いていますが、私としては、いやはや珍しく率直に、芯から体調がよくて、食生活も順調であると自信があるときは、自分の考えている悩みや心のひっかかりも率直に話して対話できる友人や、或いは同時に安堵できる友人などといった風な相手に心境を問われると、こんなことも言えそうだな…と考えるのですねえ。言葉を換えて言うと、自分を余分に押さえつけるような日常から、割に平然と距離をとっている自分を発見して「あれっ!」「ちょっと格好つけ過ぎが習慣になってしまったせいかな?」とびっくりする。
「寿命が尽きる時が来た!!」と悟り、だから「平然」と死に臨む━━といったことを言っているのではありません。死に臨まねばならぬときには、恐らく、自分は間違いなく踠(もが)き、足掻く(あがく)ことになるかも、と思っています。でも、一方で俺も、本当に、これが寿命というもんだ、と思えた時には、従容(しょうよう)として死ぬんだろうな、いや、そういう風に寿命の最後を閉じたい、と思う本音もあるんですねえ。
実際問題、どちらかと言えば、従容として死ねるためには、常識的な長寿を本当の健康体で享受するよう努力を続けて老を迎えていなくてはなりません。「腹八分目、医者いらず」の格言にはじまり、伝承され文化となっている無農薬玄米食をよくよく噛んで、土の中の産物、人参・ごぼう・大根やいも類、四季折々の野菜、伝統食としての味噌汁など発酵食品を感謝でいただく、あらゆる社会現象に深い思慮と愛をもって臨み、腹立てず、他者が幸福になるのを手伝い、社会の土台になることに意味を見出す。愛社会、愛国、愛地球を自分の位置から、それなり(・・・・)に(・)心掛け、呼びかける・・・・等々。
そして、本当に心身共に健康に「老い」を迎えられる幸運に恵まれたら、死に臨んで、必要以上に“生”に執着することはなくなるのでしょうな。
そうは、なっていない今の自分・自己であることを知っていますが、人間という生物は異なった個人、異なった家系、異なった死生観、生命意識を持つに至っても、結局は、心身共に本当に健全たることを目指して生きつづけていると、人間としての倫理を深めて、他者に役立つ━━即ち、世の人々に役だって死ぬことのできる人生に恵まれるのではないでしょうか?
13世紀の前半に生きた僧「道元」が書き続け、書き記した95巻と称せられる仏教書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の内容は全く知らないと言ってもよい程の知見しかないのですが、科学立国としての日本をどう構築するのか、ips細胞の研究を進めるのも大切でしょうが、そういう科学の成果を人間社会に役立てるための根幹として、一方で大切なことは、哲学と思想の根幹、生命―― 即ち宇宙の段取りして下さった地球生命意識を雄大な宇宙的心魂で包み育てることこそ決定的に重大な人類の使命なのだ、と厳しく自覚することが超大切な、そんな時代が来ていると確信しています。
眼蔵の「眼」はあらゆるものを照らし、蔵はすべてを心魂に刻み包むことと解釈して、皆で、「偉大な時代」の到来に遭遇する私達人類の一人として21世紀を生きる責任に目覚めたいものです。3・11の天災は日本・世界の次元の高い再生への強烈なシグナルに他ならないのですから!
49号「傷ついた地球の巨大さにおののき、環境修復に人類の「使命」を想う。」
去る10月5日、スマートフォンの開発者としても世界にその名を轟かせた米アップル社の創業者スティーブ・ジョブズ氏(Steve Jobsさん)が56歳の若さで死去し、大変なニュースでした。NHKの国谷さんとのインタヴュのヴィデオがつい先日流れたのを偶然TVで観ました。その時、若い時分のジョブス氏が発した言葉の最後に「stay(ステイ) foolish(フーリッシュ)」と言うのがとても強烈な印象を私に与えました。『阿呆(あほう)になって熱々(あつあつ)の努力・工夫をして生きるんが宜しいのでっせ! 可賢う振舞おうとしたら、あきまへんのですわ、』と、大阪弁で言うと――そういう風ですなあ!
大阪商人の「心得帳」にも全く同様の言葉が昔から残されています。
「阿呆」になり切ったら、天から佑(たす)け(け)が降ってくるんですわ!!。文字通りジョブズさんは世界の情報・通信界に決定的と言えるほどに革命素地を遺(のこ)して亡くなりました。そのうちに、素晴らしい変革すぎて、その故の波乱が針千本にならないとも限りませんが。
人類が何万年もかかって創造して来た文明・文化のお陰(かげ)を受けている私が、本質的不平を噴射するようで申し訳ない気持ちですが少々お付き合いください。私たち生物の故郷、「地球」はサッカーボールのようにマン丸の球体ではなく、多少歪んでいるそうですが、一応、直径で申しますと13,400Km程やそうです。この地球の空を「宇宙ステーション」が400Km上空を一周90分間で飛行して、情報を地上に送りつづけ、文明の明日への展開に貢献しようとしています。皆さまご案内のとおりです。
宇宙船、宇宙ステーションと呼んでいますが、地上たった400Kmの上空です。直径134Cmの地球儀を想定しましたら、この地球儀の表面、ほんの4Cmのところということになります。太陽系第3の惑星「地球」ですが、太陽から1億5千万キロ、――この事を想えばどの辺が宇宙船なのか、と思う気持ちもあります。400Kmを地表に横たえると米原から横浜ぐらい?ですか。地球の持つ引力(重力エネルギー)は意外に地表に近い処までしか届いていないのですかね?
地球に「引力」がなかったら、私たちは息もできません。生活は全部パーですから、文明だの文化だのと会話する以前に、普通に樹や草が生えて、私たちが歩けて、動けているのが何と素晴らしいことなのでしょうか。「いのち」は「宇宙力」の別名だ、と書いたことがありました。地球の巨大さにおののき、生まれてきて、ここで、今、生かされていることが、全く奇蹟であると認識しないとなりませんね。同時に、「いのち」を頂いたということは、この地球で果たす「使命」を与えられていることに違いがない、と常々思うべきなのだ、と教えられましたが、老境に入って『あっ、成る程』と、今ははっきり思います。
さて、今日この地球で生きる何百万種類にも及ぶ生物種の共通の先祖は約36~37億年の大昔に端を発した単細胞「原始核微生物」に集約されると習いました。宇宙摂理という『大法則』によって此処、地球で生命現象をスタートさせた微生物様は『一念こめて』地球上の隅々にまで生息する一切の生物群を精密に進化させ改良を重ね、“絶滅”の危機を何回もくぐり抜けて選別・改良分布せしめました。人類(ホモサピエンス)が誕生を享けたのはその最後の頃、400万年前の頃らしいのです。文化・文明も人類の偉業ではなく、宇宙の精です。
ここに、「一念」の「一」と申しますのは生命全体のことを示唆しておりまして、バランスのよい進化は、この「宇宙神の意思」をあらわしています。如何なる生命体も生まれれば、必ず死ぬ日があって生体の若返りが意図実践されます。この「死」の故を以て、死者は新しい生命に蘇り(よみがえり)、他者の生命を土台から支える礎となり「生の光」を放ち続けると運命づけられていることに就いてはご案内のところです。
宇宙生命という「いのち」の源泉に意識を届けられる「人間」として生を享(う)けた私どもは、一途に己が使命を「いのち」と断じて生きたいものですね。一途に「一念」こめて生きることで、「自然」が人類共通の“いのちの師”であることを教わるんです。襟を正して、自然に向けて運ぶ畏敬の心で、実践的に自然の復権を「使命」と心得る活動こそは、本当は「いのちのロマン」なのではないですか。
私達は一刻も死から解放されずに生きています。だからこそ、臨終に向かい一念で地球への義理を果たす「使命」に命(いのち)が輝くと信じて日々を生活しましょう!
ちょっとかっこ良すぎる終わりかたでしたかね!(小笑い下さい)