64号「人の喜びを喜びとして」鈴木勲さん2015.01
鈴木 勲(すずきいさお)さん
株式会社ら・さんたランド 代表
〒960-8203
福島県福島市本内字南下釜2-6
TEL 024-525-2690
FAX 024-535-1714
URL: http://lasanta.jp
E-MAIL info@lasanta.jp
Fb https://www.facebook.com/lasantaLAND
人の喜びを喜びとして
私の家は、「家の仕事(脱穀)が忙しいから早く帰って来い。」と小学校に電話がかかってくるくらい貧乏暇なしの家でした。今思えば、春のふきのとう・竹の子・ワラビに始まり、一年中自然の恵みのある豊かな環境でしたが、小さい頃は、なんで、家ではハンバーグやソーセージがでてこないんだろうと思っていました。手伝いをすると誉められるのが嬉しくて、喜んでするようになり、近所や親戚の家で、養蚕の手伝いをした時に一服に出してもらえるパンが私にとって何よりものご馳走でした。
工業高校卒業後、就職した鋳物工場での先輩の言葉「仕事は次の工程の人に迷惑をかけるな、喜ぶことをしろ!」が、今の仕事に対する原点になっています。1993年30歳の時、車にパンや食品を積んで、企業や個人宅を回る移動販売の仕事を始めました。みんな違った環境の中生活しています。誰一人として同じ環境の人はいません。働き方もみんな違っていい。誰でも事業を起こし、経営を始めることができる。自分でアイディアを出し、考え行動することで、お客様に感謝され、その感謝の料がお金として返ってくる。そんな、ひとり一人が個人事業主で働ける新しい形の会社、パンの宅配ら・さんたランドです。
創業当初、友人・知人からは、みすぼらしい大変な仕事だと思われたようで、「そんなに大変なら100万円ぐらい貸してあげるよ」と言ってくれる友人もいましたが、お客様に喜ばれ、接客と提案の次第で、ご家族やご近所の方々へも広がり、沢山の人と接するので人間的にも成長できる、やりがいのある仕事だと誇りを持っています。自宅に居ながら物が買える便利な世の中ですが、人と人とがふれあう場が少なくなった分、相手を思いやる心、結の精神などが欠けてしまったようにも感じています。つながりを大切にした販売、楽しんで頂ける店づくり(車内)、ワクワクして買い物をし、笑顔になって帰って頂ける真心の接客。創業から大切にしてきたのは「家に来てくれることを心待ちにしてもらえるサンタクロースのようなスタッフ」の育成です。
現在は、個人事業主と社員が半々ですが、ら・さんたアントレプレナー集団(起業家集団)の考えを活かして事業を展開しています。「連帯すれば自立する」思いやりや助け合いの心、励ましあい支え合う心が、自分で考え行動する自立した人財を育てると考え日々取り組んでいます。今では全国からご参加頂けるようになった年2回開催する全体ミーティング(経営計画発表会)のきっかけは、頑張っている人を表彰してあげたい! 売上だけの表彰ではなく、お客様や仲間のために頑張っている人、自分自身の成長の為に頑張っている人も、表彰してあげたい。更に、取引メーカーさんにも参加して頂けば、互いを理解し、より良い提案や販売ができ、共に成長できると考えたからです。
みんな違っていいのですが、方向を見失ったり、自分さえよければと思ったり、自立と自分勝手を履き違える恐れがあります。理念を実現する為の表彰で、理念と自分の仕事をより深く理解し、自信と誇りを持ち、社長と社員、個人事業主、パートナー企業様とも場を共有し、次の目標を明確にして互いに和の支援関係ができてきます。
3.11東日本大震災は、様々なことを気づかせてくれました。当たり前だと思っていたことが全部「ありがとう」だったということ。草木が生えている。お日様がある。お月様がある。もっと地球を、自然を大切に、もっと心を、人と人とのつながりを大切に。自分達に出来るところから始めていきます。お届けしたいのは、“健康と幸せ”、願いは“笑顔いっぱいの家族”。これからも人と人との良縁づくりのお手伝いをして参ります。
65号「“看取り士”への道」柴田久美子さん 2015.04
柴田久美子(しばた くみこ)さん
一般社団法人日本看取り士会 会長
一般社団法人 在宅ホスピス なごみの里 代表理事
〒701-1154 岡山県岡山市北区田益582
TEL/FAX 086-728-5772
kumiko.shibata@nagominosato.org
Twitter: @ShibataKumiko
http://nagominosato.org/
"看取り士”への道
私は出雲大社の氏子として生まれましたが、大社さまの教えを大切に守って暮らす親の敷いたレールに反発して飛び出し、大阪のYMCAに入学、その後、日本マクドナルド㈱に秘書として入社、16年間働きました。フランチャイズ店のオーナーとして最優秀賞を頂いたこともありましたが、すべてマニュアル化された仕事に物足りなさを感じ、平成元年に独立しました。ですが、会社の看板を失った私は東京・福岡で始めたお店で失敗してしまいます。眠れない夜を過ごしていたある夜のこと、大宇宙の意思ともいうべき、こんな言葉が聞こえてきたのです。「愛という二文字が生きる意味だ!」
翌日には店を閉じ、ためらうことなく介護の世界に飛び込みました。それからの毎日は感動の連続でした。ただ生きること、あるがままの存在そのものが素晴らしいということを幸(高)齢者の方々から身を持って教えて頂いたのです。
働き続ける中で、現代医療における終末期の矛盾とむなしさを痛感しましたが、不思議なご縁で、在宅死亡率75%だった病院のない離島に移住、“看取り士”としての人生がスタートしました。島に看取りの家を立ち上げ、多くの方々を自然死で抱きしめて看取りました。
光栄なことに、旅立たれる間際のお年寄りを抱きしめると、私の心と体がふわっと軽くなるのを感じます。そして、光という表現しかないのですが、「光と光が一つになって溶け合ってしまう瞬間」を味わわせて頂くことがあります。この瞬間を瀬戸内寂聴さんは「人が死ぬと、その瞬間何かがエネルギーに変わり、その熱量は、25メートルプールの529杯分の水を瞬時に沸騰させる」と話されます。
人は、産まれた時、両親から身体、良い心と魂をもらってきます。抱きしめて看取る数々の実践の中で、決して目には見えないのですが、私は魂の存在を感じられるようになりました。肉体が亡くなる時、良い心と魂は看取る人の良い心と魂に重なります。だからこそ、最期の瞬間だけでも大切な方のそばに寄り添い、看取る必要があるのです。
医者が言う「ご臨終です」の言葉で、命が終わりと思われる方が多いと思いますが、臨終とは「臨命終時 命の終わりの時に臨む」と書きます。旅立たれた方はまだそこにいて、そこから始まる家族や友人へ命が引き継がれる臨終からの時間としっかり向き合い、身体の温もりをその手に移し、冷たくなるまでそばにいて、その冷たさを受け取る。それを私達はグリーフケアと呼んでいます。看取りは「命のバトンを受け取る」という尊い場面に立ち会える瞬間です。私たちは大切な一人として生まれ、丁寧な看取りによって命が次の世代に受け継がれていくのです。
「人生のたとえ99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものにかわる。」マザーテレサのこんな言葉に導かれています。
2025年、団塊の世代が後期高齢者となり毎年の死亡者数は推定150万人台、厚労省は47万人に死に場所がないと発表しています。そんな時代を前に、活動拠点を岡山県に移し、自宅で、または病院で幸せな最期を望まれる方々のお手伝いをさせて頂いています。
出産に助産師がいるように、死ぬ時も誰かに手助けして欲しいと思われる方々の想いに応えて、皆様に幸せな最期を手渡したいと、現在全国55名の看取り士と、それを支える無償ボランティア91支部のエンゼルチームが活動を続けています。
病院から家に帰りたいと言われたら、また看取ること、看取られることに不安を感じたら、ぜひ私たち「看取り士」をお使いください。
66号「幼少期の農的体験がもたらしたもの」飯尾裕光さん2015.07
飯尾裕光(いいおひろみつ)さん
株式会社りんねしゃ
INUUNIQ Village代表/
公益社団法人全国愛農会理事
〒496-0008 津島市宇治町天王前80-2
連絡先 ℡0567-24-6580
e-mail:hiro@rinnesha.com
URL: http://www.rinnesha.com/
幼少期の農的体験がもたらしたもの
私は、愛知県生まれの40歳。1974年頃から始まった安心・安全な食べ物を共同購入する市民運動を通して父が創業した自然食等の流通販売会社である「株式会社りんねしゃ」の2代目。北海道支店で、自社製品『菊花せんこう』の原料、除虫菊を栽培する循環型農場の管理が現在の主な担当である。
一方で、個人的に2006年に立ち上げたオーガニックカフェを津島市に移転しINUUNIQ(イニュイック) VILLAGE(ヴィレッジ)という名称で「都市近郊型農的暮らしの実践」をテーマにした場作りを行ってもいる。アースデイ名古屋実行委員会に関わり、妻と共に甚目寺観音や東別院の手作り朝市、地域おこし朝市なども主催しつつ、三重大学院生物資源学部博士課程に在学中の学生であり、公益社団法人全国愛農会理事でもある。
「幼・少年期に農的な自給自足の暮らしを原体験することは、人間教育においてとても重要なこと」という教育方針の父親。母は、子育てには自然教育が最適という考えで実践の為ならば家族別々の暮らしさえ厭わないほど強い思いを持ち、祖母と父、そして姉二人を残し、僕から下の兄弟4人は、原始的な自給自足の田舎暮らしに明け暮れることになり、父はその生活を支えるための仕送りという役割分担になった。その暮らしは【自然豊かな穏やかな農的暮らし】程度で済まない【原始的な自給自足】まで突き詰めるものだった。結果、長男の僕が、【原始的な農労働】の実践にはまり込んでしまったようだ。幼少期から、電気や水道、ガスもない、かやぶき屋根のあばら家での、学校に行かない原野暮らしで、農地開墾、田畑管理、伝統的食加工まで、一貫して【自分でやってみる精神】を熟成させてきた。
両親は【社会問題に関心を持ち、その解決に関わる】運動家体質も持ち、僕たちは幼少期から、天然せっけん運動、食品公害勉強会、反原発、環境保全、人権・平和活動など、あげればきりがない市民運動に接してきて、活動を持続する最良な方法は、問題提起し続けられる事業を始め、ちゃんと収益を上げて維持することだと理解できるようになった。特殊な環境で育ちながら浮世離れせずに社会活動を続けられているのは、社会の一員として役割を果たすという責任感も同時に学んでいたからだと、この年齢になって理解できるようになった。
弊社の主力商品である「菊花せんこう」は、生物の多様性や、自然の大切さ、化学合成品や化学薬品を必要としない社会を取り戻すというメッセージを込めたうえで経済的自立を目指しているところに面白味があると思う。経済効率優先ではなく、【自然の制約の中で自分達がどう暮らすのか】が基本である。
幼少期の農的原体験が僕にもたらしたものは何だったのかと、考えさせられる機会が増え、分かってきたことがある。
① 幼少期の農的原体験と原野の暮らしリズムは、過剰社会に引きずられない体内制御アンテナを埋め込む。
② そのアンテナは、責任ある大人になればなるほど敏感に反応し、行くべき方向を指し示してくれる。
僕に埋められたそのアンテナは、見事に大切なことを受信しているし、最近はその電波を発信できるようにもなってきた。夏の夜を快適に過ごす「菊花せんこう」の煙に親しんで、その電波を感じて頂ければ幸いである。
67号「普通の人が普通の家に普通に住むことができるように」中村武司さん2015.11
中村武司(なかむらたけし)さん
㈲工作舎中村建築 代表
〒464-0852 名古屋市千種区青柳町7-14
電話:052-741-3088
Fax:052-745-4855
mail:kurasuke@nifty.com
URL:http://kino-ie.net/tsukurite/nakamuratakeshi.html
普通の人が普通の家に普通に住むことができるように
今から10年前、環境をテーマにした「愛・地球博」が私の住む愛知県で催され、スタジオジブリが「サツキとメイの家」をパビリオンとして、映画「となりのトトロ」で描いた昭和30年ごろの舞台を再現しました。私は縁あってこの家の建築を任されたのですが、始めの打ち合わせの時「見世物としてのパビリオンならそういった業者にお願いしたらどうですか?」という私の問いに対し、プロジェクト統括者の宮崎吾朗さんからは「映画のセットではなく当時建てられていた本物の家を」との要望で、「それならやりましょう」と始まりました。
大工の3代目として生まれた私は、父親の下で夜間大学に通いながら修業する中、昭和時代の豊かな古い住宅の仕事に携わりました。中卒で叩き上げの父親とは意見の相違でけんかもしましたが、古くからのお付き合いのお施主さんが多く、厚い信頼関係で家に関する細々としたこと全てを任されている姿勢を学びました。世代を超えて大工が住まい手とともに古い家を守り続けていくという図式が崩れつつある現在、住まいに寄り添うことこそが大工の職能だと思い日々仕事をしています。
サツキとメイの家は昭和初期に、関東近郊に建てられた和洋折衷の家です。杉やヒノキの日本の木材を使い、壁は竹小舞の下地に土を塗って漆喰で仕上げ、屋根には土を練って焼きしめた燻し瓦が載り、稲藁と藺草で作られた畳を各部屋に敷いてあります。畳の間と庭の間には木製ガラス建具が続く長い縁側があり内外をつなぐ緩衝空間となっています。そういった昭和の時代の普通の家が造れなくなる時代が来るのです。
経済産業省と国土交通省が次世代省エネ基準を進める中で「改正省エネ法」が2020年をめどに住宅まで規制をしようと準備が進められています。「家庭内エネルギーの外部への損失が少ない家をつくりましょう」という大目標の下、高気密高断熱型で開口部の小さな家が標準とされ、義務化されようとしています。その結果「サツキとメイの家」のような木と土の家が建てられなくなるのです。
本来「人が住む」ということは基本的人権であると思います。昔から普通にあるような開放的な家に住み、冬は火鉢と炬燵、夏は打ち水をして浴衣を着て団扇であおぐといった生活を求める人たちもまだまだ多くいると思います。4年前の震災後、多くの人たちから、1980年代の生活に戻しエネルギー消費を押さえてはという声を聞きます。30年たって確かに便利に快適になったのかもしれませんが、電気エネルギーの消費とともに多くの大切なものを捨ててきたように思えて仕方ありません。
日本人の住まい方の根幹が揺るぎかねない現在、問い返してみる時期なのだと思います。その場しのぎの政策によって何百年もの間に培ってきた住まい方を変えられてしまってよいのでしょうか。危機感を覚え、スタジオジブリの鈴木プロデューサーに相談、FMラジオ「ジブリ汗まみれ」での対談や、ジブリ月刊誌「熱風」8月号で「サツキとメイの家の10年」を特集して頂きました。11月号からは木と土の家の材料産地や職人たちの現状を伝える連載も予定しています。また「伝統構法をユネスコ無形文化遺産に!」(http://dentoh-isan.jp/)という活動も始まりました。日本文化の根幹ともいえる木造建築技術を次の時代につなげていくことが私たちの役目だと思っています。
68号「いのちの流れ」から託されたもの 稲葉俊郎さん2016.02
稲葉俊郎(いなばとしろう)さん
東京大学医学部附属病院 循環器内科 助教
〒113-8655 東京都文京区本郷7-3-1
TEL 03-3815-5411(代表)
(院内PHS 37149)
Mail: inainaba@sannet.ne.jp
ブログ:「吾」http://blog.goo.ne.jp/usmle1789
「いのちの流れ」から託されたもの
自分は医師として、日々ひとの体に接しています。そして気付かされることがあります。それは、体や心を深いところで支えている調和の力の存在です。愛やいのちと言ってもいいでしょう。私たちは一瞬一瞬生き続けていますが、その根底に調和の力が存在しなければ、生きている状態を保つことすらできません。それは人間だけではなく、生物のいのちすべてに共通します。この宇宙にいのちが生まれて四十億年近く経ちますが、いのちのつながりは、四十億年の間一度も途切れたことはありません。私たちがその事に気付くか気付かないかにお構いなく、いのちは宇宙的な調和の働きのなかで数十億年の規模で続いています。今後も続いていくことでしょう。
わたしたち生きている存在すべてには、そうした「いのちの流れ」から託され続けた調和の力が奥底に流れています。体や心は、その代表的なものです。
人は、生まれてから死ぬまで、一瞬たりとも自分の体や心と離れることはできません。とても大切な存在の両親も恋人も親友も先生も…別れる時がありますが、体や心だけが一瞬も途切れることなく一緒にいるはずです。ただ、私たちはずっと支え続けてくれている伴走者を大切にすることを忘れ、気遣いや感謝を後回しにしていないでしょうか。頭で学ぶ情報や概念的な知識に振り回されるより、常に自分と一緒にいる心や体とこそ、仲良くして、対話をすることが大切なことです。すべてはそこから始まります。
医学や医療は、困ったひとをなんとか助けたい、という思いが原点にあり、体や心の知恵が凝縮されたものです。芸術、古典や神話、衣・食・住・・・あらゆるところに、体や心の本質は潜んでいます。この世界には色々な仕事や学問がありますが、どの仕事にも自分も周りも社会も幸せであってほしい、という思いが根幹にあるのではないでしょうか。子どもから大人に成長する過程であらゆる常識・固定観念・ルールを学びながら、そうした大事なことをすっかり忘れてしまっているように思います。良くも悪くも色々な知識や技術を学び身につけているはずですから、後はすべて使い方の問題です。ノーベル賞級の物理学の知識があっても、爆弾や武器を作ることすら可能なのですから、学問や技術の本質は使い方です。どういう社会を望むのか、共に育んで行く必要があるでしょう。
医療の枠も定義も人間が決めたものです。私たちがどのような社会を作りたいかということをイメージしながら、時代と共にその原点を問い直す必要があると思います。それは他の領域でも同じ事です。人の体には六十兆個の細胞がありますが、無駄なものは一つもありません。すべて役割が違うだけです。仕事の役割も人の体と同じです。対立や争いではなく、この世界の調和を願いながら、色々な領域と協力していく必要があるのでしょう。体や心や魂と対話してそっと耳をすましてみると、「いのちの流れ」から人類が託されている祈りの声が聞こえてくる。そんな気がしています。
69号「人が幸せに生きられる社会を願って」 岸浪 龍さん2016.06
岸浪 龍(きしなみ りゅう)さん
おふくろさん弁当(アズワン株式会社)社長係
513-0823 三重県鈴鹿市道伯5丁目23-26
059-370-2888
連絡先メールアドレス ofukurosan_suzuka@yahoo.co.jp
おふくろさん弁当 http://as-one.main.jp/ofukuro/sb/sb.cgi?pid=0
アズワンコミュニティ http://as-one.main.jp/ac/
人が幸せに生きられる社会を願って
今から11年前の2005年まで、私は不動産仲介・販売会社のサラリーマンでした。毎日、ノルマに追われ、プレッシャーと戦いながら、「会社とはこんなもの」と、諦めていることにも気付かない忙しい毎日でした。
そんな時に「まったく新しい社会を作ってみよう」と、まだ諦めていない人たちに出会いました。今、三重県鈴鹿市で「アズワンコミュニティ」と名付け、共に活動しているメンバーです。当時は、名前はもちろん、コミュニティをやろうなどという意識もなく、「本当に人が幸せに生きられる社会ってどんなのだろう?」と、純粋に考えている人が居る、ただそれだけでした。「人間とは?」、「やさしい社会とは?」いろいろなことを話し合い、深めあう中、「当たり前」と思っていることも、全部0から考えてみよう、既成概念にとらわれない「会社」を作ってみるのもいいかもしれないと思うようになりました。
人が自由に、生きたいように、やりたいようにやれる会社で思う存分能力を発揮すれば、サービスは向上し、生産性、業績も上がり、経済的な余裕が生まれ、心の余裕に還元されていく…。そんな「理想の会社」を思い描いて「アズワン株式会社」が2005年に誕生。その事業の中から、日に20食を作る小さなお弁当屋さん「おふくろさん弁当」も生まれました。「決まり」も「ルール」もなく、上司や部下の「上下の関係」もありません。「社長」と言っても偉いわけでもなく、「社長係」といったところです。
理想を描いての出発でしたが、それまで身につけてきた「仕事だからこうしなくてはいけない」「そうは言っても…」といった旧来からの観念が邪魔をして、順風満帆とはいきませんでした。つい、仕事が早く、指示が出せる、いわゆる良くできる人を大切にし、仕事が遅い・できない人の上のような上下感が出て、その人の仕事観が全体の空気に大きく影響するようになりました。そんな時、当時の社長係から「明日から仕事に来やんとき~、こんな中で作ったもの食べさせんで…」と言われ、頑張って売上も伸ばしてきたのに、とショックでしたが、半年職場を離れ、自分を見つめ直しました。
どこかに間違いの源があるのではないか、一緒に始めた仲間にも励まされながら、10年間、試行錯誤を重ねる中で、ベースになるのは「人と人との関係」だということに気がつきました。「どんなことでも安心して相談でき、話し合える人と人との関係」の実現が、どんな立派な教えや、システムや方法よりも、大切な核となる部分だと思います。「やらされたり、強制されたり」では、人はその持つ能力を十分に発揮できない。それが「おふくろさん弁当」をやってきて、一番感じるところです。今では毎日1,000食のお弁当をお届けしています。行くのが楽しみな職場で、みんなが笑顔で力を合わせて作ったお弁当は、味だけではない、何か大切な「心」も運んでいるような気がします。
行動し、見えてきた課題を、持ち寄り、研究材料にしながら進んでいく、そんな試みが「おふくろさん弁当(アズワン株式会社)」です。私たちのこの小さな試みが、幸せな社会への一助になれば幸いと思いながら、志を同じくする方々と手を取り合って共に進んでいきたいと願っています。
70号「聖地を探して」井津建郎さん2016.09
井津建郎(いづけんろう)さん
写真家・非営利団体フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー創設者
1970年からアメリカ、ニューヨークに在住現在に至る
フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJapan; www.fwab.jp
FRIENDS WITHOUT A BORDER USA; www.fwab.org
Kenro Izu Studio;www.kenroizu.com
聖地を探して
これまで数十年間、写真家として古代の聖地、遺跡をライフ・ワークとして世界を旅してきました。20数年前にカンボジア・アンコールワットの撮影に訪れた時は、僕の人生がまさか今のような展開になるとは想像もしませんでした。
初めてのアンコールワットの撮影に集まってきた子供達の多くが地雷、不発弾で負傷していました。翌年再び撮影に訪れた際に立ち寄ったシエムレアップ県立病院では目の前で女の子が亡くなりました。それが両親がわずかなお金を持っていなかったため、病院の医療スタッフがその患者を無視していた為だと知った時に湧き上がった今までに経験したことの無い悲しみと怒り。そしてこれまでTake (撮る)人生を送ってきたがGive (還元)したことが無かったことにも気づきました。
ニューヨークに帰国して考えた末、 シエムレアップに無料の子供病院を作ろう!と決心 て日米の友人たちに発信、協力を頼みました。非営利団体「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー」を有志仲間と結成してアンコール小児病院建設と運営計画がスタートしたのです。撮影したアンコールワット遺跡群の写真展と写真集が多くの人々を繋げるきっかけになり、2年間で小児病院建設資金を集めることができ、2000人以上の人々の友情が1999年1月アンコール小児病院開院として開花しました。
フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーの病院のモットーは”全ての患者さんを我が子のように診療しましょう“という思いやりのケアです。あれから既に17年、成長したアンコール小児病院は3年前、現地病院スタッフに運営を委ね、現在毎日500人前後の患者さんの健康を守るだけでなく、医療スタッフを育成するカンボジア有数の教育病院となりました。
フレンズは、小児病院の現地化と同時に蓄積したノウハウを活かして、カンボジアとともに最貧国の一つお隣ラオス、ルアンパバンに無料小児病院の建設と運営計画をスタートしました。医療衛生レベルは非常に低く、幼児の死亡率は日本の10倍以上です。2013年末に保健省との合意と鍬入れ式を行い、2015年2月にラオ・フレンズ小児病院が開院しました。現地医療スタッフの教育は進行中、外来診療から始めて、入院病棟、そして救急室を開き、2016年7月に手術室をオープン、今後は新生児ケア室、集中治療室などを逐次開いていく予定です。
これまで30年以上、聖地や遺跡を聖なる空間として人間を入れずに撮影してきたのが、アンコール小児病院設立以来、聖地を守る人々の存在に気付き、聖地周辺の人々も入れての作品に進化してきました。またラオ・フレンズ小児病院計画が開始した頃から、聖地とは遺跡のような特別な場所にのみ存在するのではなくて、人々は心のなかに『聖地』を持っていると感じるようになり、最近作の『インド・永遠の光』を制作しました。インド社会の底辺にいる人達も遠くのかすかな光(希望)に向かって生きて行く、彼らが生き、そして死にゆく姿に尊厳を感じて撮影をしました。
独りで考え制作する写真とは異なり、多くの人々との共同作業である病院建設と運営を通じて学んだ結果かもしれません。作品を振り返ってみると、それぞれの転換期ごとに写真以外の活動が反映されているのが見え、全ての行動が繋がって人生はあると納得させられます。
71号「時を読み兆しに気づく」高月美樹さん2016.12
高月美樹(たかつきみき)さん
和暦編集者、ソーシャル・ファシリテーター。
〒167-0051 東京都杉並区荻窪1-45-16 LUNAWORKS
☎&fax. 03-5397-0617
e-mail:info@lunaworks.jp
http://www.lunaworks.jp
時を読み兆しに気づく
日本人が古くから使っていた太陰太陽暦に気づいたのは15年前でした。ある武道家の勧めで、それまでの5年ほどバイオリズム日記をつけていました。人の身体に経絡(けいらく)があるように外側にも経絡があり、身の回りの環境すべてのものから影響を受けているという考え方で、偶然出会うもの、人、場所、食べ物などで変化する体調に、人は無自覚で鈍感になっているのではないか。頭で考えていることと、身体の反応が違っていることがある。そんなズレを確かめるためのバイオリズムチェックです。
どこかに行ったり、誰かに会った翌日の体調はどうだったか、心の好調・不調など、スケジュール帳を眺めると、そのときの気分や体調が思い出されます。不思議な夢や、ばったり道で出逢った人、かけようとした人からかかってきた電話などの奇妙な偶然、ふっと頭をよぎったことや、ちいさなひらめき。そんなことをたまにつけていたあるとき、いつも満月のときにトピック的な出来事が起きていることに気づいたのです。
それは目に見えないことであっても自分にとってはハッとするような気づきであったり、エキサイティングな出来事であったりとさまざまですが、また満月だなと思ったのがきっかけで、月の満ち欠けをベースにした日本古来の時間軸に興味を持ったのです。
月と太陽、地球の生命を支える二つの天体。太陰太陽暦はその動きをほぼ正確に知ることができる暦です。高度な天文学によって紀元前の中国で完成し、月をみれば日付がわかるシンプルなもので、月の朔(さく)望(ぼう)に農耕のための目安となる二十四節気、七十二候と組み合わせ、アジアの多くの国々で使われてきました。日本でも明治の改暦まで使われていました。四季豊かな日本の暮らしに、季節を知ることはなによりも重要で、歳時記や季寄せは先人の智慧、感性の集積として今日に伝えられています。現在の西暦は便利なものですが、それまで使われていた季節の情報もなくなってしまったのです。
これに気づいた当時、太陰太陽暦(旧暦)をベースにした手帳はありませんでしたので、こんなものがあったらいいのでは、という思いに駆られて作り始めました。自然に寄り添う暮らしを願う人々に支えられて広がり、十年目にそろそろ日本のもうひとつの時間軸として定着してもよいのではないかという思いから、タイトルを『旧暦日々是好日』から『和暦日々是好日』に変更して、今日に至っています。
和暦を学び、少しずつ歳時記に詳しくなってきて思うことは、先人の知恵は過去のものではなく、未来のためにあるということ。人間は生きているのではない。生かされているのだ、という思いを、制作しながら年々強くしています。暦は、何かに気づくための目安で、本当に大切なのは先人の叡智を借りながら、自分の直観で兆しやサインを読み取る力、そして主体的に生きる力なのではないかと思っています。
太陽と月、陰と陽、光と闇。統合の時代といわれる今、月のように陰とされ、闇とされてきた部分にしっかりと光をあて、大きな声にかき消されてきた小さな声に耳を澄ませることの大切さを、ひしひしと感じるこの頃です。
72号「社会の中に生きる」ウォン・ウィンツァンさん2017.02
ウォン・ウィンツァンさん
ピアニスト、作曲家、即興演奏家
SATOWA MUSIC http://www.satowa-music.com/
音楽と、楽しく優しいトークでお送りするPodcast番組「ウォン&はるかのムーントーク・カフェ」もホームページからアクセスできます
社会の中に生きる
私はピアニスト、作曲家、心理ワークのファシリテーターもしています。現在NHKで放映されている「にっぽん紀行」と「こころの時代」のテーマ曲は、お聞きになった方もいらっしゃるかもしれません。
私の父母の家系は殆どが商売人で、父は香港の華僑の家系です。でも母型の祖母は神戸の芸者さんでした。私の音楽の遺伝子は日本人の祖母から受け継いだに違いありません。
19歳からプロとして活動をはじめましたが、自分の音楽スタイルを確信するまで、ほぼ20年かかりました。それまでは、暗中模索しながら、生きるために、所謂音楽業界の中で働いていました。スタジオミュージシャン、タレントさんの伴奏、テレビCMの作曲などで、生き繋いできました。とっても苦しい時代でしたが、今思い出すと、その修行時代は私が精神的に自立するのに必要だったと確信します。
特にTVCM制作は… 私の上には音楽プロデューサー、音楽制作事務所、映像制作プロデューサー&事務所、広告代理店、クライアント、そして社長と、それこそ士農工商作曲家、みたいな感じです。私の制作したCMを、あらゆる部署の偉いさん達にプレゼンせねばならないのです。その試練は、コミュニケーション力、相手の気持を察する能力、自分の思い込みを手放す修行、自分の思いを伝えるスキル、何を言われようが自分を失わない強さ、それらを学ぶにはなかなか得難いシチュエーションでした。
40歳で、ようやく人前で演奏したり、自作の曲を披露できるほどになりました。その時、業界から身を引いて、奥さん(店舗デザイナーで、クリエイター)と二人でインディーズレーベル“SATOWA MUSIC”を立ち上げました。私たちは、業界で培ったスキルを使って、レコード業界のシステムでは作れない音楽やCDジャケットを、インディーズであるからこそ作ることが出来ると確信していました。あるレコードメーカーの方が私たちのCDを見て「これはメーカーでは絶対制作できない」と感嘆していました。
SATOWA MUSICはこの25年ぐらいの間に30タイトル以上のCDをリリースすることが出来ました。それも、あの修行時代に、制作スキルと、コミュニケーションスキルなど、社会でしか得られない技量を得られたからに他ならないと思います。私たちには33歳になるミュージシャンの息子がいます。彼にもなるべく多くの人と関わり、なるべく広い音楽スタイルスキルを学び、その中で必然的に現れる「自分のスタイル」を楽しんで欲しい。人間は社会の中でしか成長する機会がありません。どんな人も、自身の生き方を生きるためにも「社会化」は絶対必要なのだと思っています。
さて、私たちは昨年、平和をテーマにした楽曲「光を世界へ」をリリースしました。このCDの制作では、沢山の友人達がボランティアで参加してくれました。CDの収益は平和活動をしている4つのNGOに送られます。そんな活動ができるのも、友人知人、そしてオーディエンスに支えられているからだと、感謝の気持ちが湧いてきます。
人間は一人では幸せになれない。ひとりの人間として、しっかりまっとうな、健全な人格を成長させ、沢山の愛する友人に囲まれてこそ、本当の幸せがあるのだと、つくづく思います。
73号「黒胡椒に平和の願いを込めて」倉田浩伸さん2017.05
倉田浩伸(くらたひろのぶ)さん
KURATA PEPPER Co., Ltd.(カンボジア)社主・代表
株式会社クラタペッパー(日本)
〒482-0021 愛知県岩倉市新柳町1-35-1-B-507
TEL0587-81-3207 FAX0587-81-3610
e-mail : japan@kuratapepper.com
http://kuratapepper.com
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黒胡椒に平和の願いを込めて
私のカンボジアへの想いをたどると、中学の世界史教科書にあった一枚の写真に辿りつきます。戦場カメラマン沢田教一氏による「安全への逃避」と題されたベトナム戦争の写真。第二次世界大戦時に空襲警報の度に逃げ惑った両親の話と重なり、戦争は、なぜ起こるのか、という疑問を抱き始めました。
1985年、中学3年の時に観た映画「キリングフィールド」で、ポルポト時代のカンボジアを背景にした大虐殺の光景に衝撃を受けました。一度観ただけでは、全く理解ができず、興味はカンボジア内戦へと移って行きました。同じ時に実兄を交通事故によって亡くし、戦場でなくても人が人の命を奪うことがあるという事実を目の当たりにした瞬間でした。
“生きる”とは何か。次の年の春、兄を亡くし傷心だった私を両親が出してくれたオーストラリアへのファームステイの帰路、偶然よった香港で初めてスラム街を目の当たりにしました。スラム街で“生きる”人々と、日本で生まれ育った自分との“生きる”環境の格差に心を痛めました。この両親の元へ生まれたことへの感謝と、こんな格差から平和が崩されていくのではないか。何故、世界経済社会では、このような不公平が生まれるのか。そんな想いを募らせたまま大学生となります。
語学研修でアメリカに居た1991年1月湾岸戦争が勃発、同じ寮のアメリカ人学生に、「日本人はお金を出すだけで人的貢献を世界にしていない」と揶揄され、真剣に国際貢献を考えるようになりました。10月、カンボジア和平が締結され、始まった国際協力NGOの活動隊プロジェクトに1992年8月にボランティア隊員として派遣されました。内戦が終結したばかりのカンボジアでの活動は、日本という温い環境の中で生きてきた自分にとって大きな衝撃でした。地元の人々が与えられた運命の中、一生懸命に“生きる”姿から、本当の幸せとは、人々が平和で暮らしていくために本当に必要なものは何か、多くを学びました。
戦争をしなくても済むような社会づくりにもっと関わりたい。国の再興には産業の育成が大切と思い、農業国のカンボジアでは、先ずは農業に関わることが責務と考え現在のクラタペッパーの前身となる事業をスタートしました。「カンボジアの農産物の中から、世界に誇れる逸品を探したい。」と各地方を回りましたが、なかなかいい商材が見つからない中、偶然親戚の大伯父から1960年代のカンボジアの農業統計資料を入手しました。
カンボジアの人々がいつも懐かしく思い出す1960年代のカンボジアは、東南アジアで一番栄えていた国で、当時の代表的な輸出産品の一つとして、世界一美味しいと言われた胡椒が掲載されていました。ポルポト時代(1975年4月~)に、胡椒農園は壊滅的な打撃を受けましたが、支配から解放されたコッコン州の元胡椒農家が自分の農園に戻った時3本だけ生き残っていたコショウの木を、少しずつ本数を増やして1995年にその農家を訪れた際には家庭果樹園規模の胡椒農園が復活されていました。
もう一度“世界一”良質な胡椒と言われるようにとの願いを込めて、現地の人と共に伝統的な農法で事業を興し、最近、ようやくカンボジア農産品のトップテン商品としてカンボジア政府にも認められ始めました。良質な胡椒作りを通じて、世界が平和に過ごせるように広めていきたいと願っています。
74号「地球環境への祈りの行脚」藤本倫子さん2018.05
藤本倫子(ふじもとみちこ)さん
環境カウンセラー
住所:藤本環境オフィス
福岡市南区寺塚2-20-1 えがおで寺塚511 〒815-0074
℡ (092)511-0030 FAX(092)511-7777
地球環境への祈りの行脚
「波乱万丈の人生でしたが、人間は本当に真剣にやろうと思えば何でもできる。どんな時でも自分がやっていくという気持ちになったらできないことはないんです…」
70歳から環境改善運動に身を投じ、全て自費で研究開発、地球環境への祈りの行脚をしてこられ、今も循環型社会への熱い思いが溢れ、願いに向かって邁進される95歳現役の環境カウンセラー藤本倫子さんのお話を伺いました。その人生は、一人で何人分を生きられたかと思わされるものでした。
― すべては1人から始まるとの思いで生きてきましたが、70歳を迎える頃、多くの方々に支えられてきた人生、残りはご恩返しをしなければ生を受けた意味がないと思うようになりました…。危機に瀕している地球を次代へ受け渡して良いのかという思いが日増しに強くなり、生ごみを燃さなければCO2の排出が減ると気づいて猛勉強し、酵素に行き着きました。酵素研究者の元に通って誕生した生ごみ処理機「くうたくん」は、人間の胃の中と同じように生ごみを消化してくれます。子や孫の世代が安心して暮らせる地球を残したくて、生ゴミ完全リサイクルを広めるため全国の役所に約3000通要望書を出し、10年間で千軒近く回り、全国380か所の学校もまわってごみ減量の必要性を長年訴え続けからか、平成22年「地球環境温暖化防止活動環境大臣賞」を頂きました。
朝鮮半島で生まれ、育ち、終戦で引き上げ。大好きな教職では大家族が暮らせないので、学校給食の食材を納める商売を始めようと一念発起して地元の銀行からお金を貸してもらってスタート。こまめな返済が信頼され、新しい納品先をいろいろ紹介してもらいました。ところが、昭和38年に政策で突然炭鉱閉鎖が決まり、取引開始してまもない75社の長崎石炭生協に納めた1178万円が未収となり事業開始15年目に黒字倒産しました。
こんなに真面目にやっても国が騙すようになったらおしまいと思い、死のうと普賢岳を登る途中、目の不自由なお坊さんに声をかけられて教えて頂くうち、もう一度裸一貫頑張ろうと思いました。再出発を期し、知る人のない別府で生命保険の外交員になり団体契約専門で33年間働きました。お世話になった銀行の支店が、大分にできる看板を見て、お礼がしたいと、先々でその支店の応援をお願いしたところ驚くほど預金が集まったそうです。私を覚えておられた頭取が「借りたお金を返さない人はいるけれど、恩に感じてここまでする人はいない」と契約を切り替えて下さったこともありました。
環境活動資金は、生命保険時代に頂いたお金を寄付して「藤本倫子環境保全活動助成基金」を作り、「くうたくん」の売上もその基金に入り、今後環境活動をされる方々の支援金として使って頂きます。世界中の一人ひとりの心に、熱意と誠意と創意が芽生えれば、きっと青く美しい地球を次代へバトンタッチできると思います。
― 観音様に感謝しつつ、夢を語られました。保証人、大病等々その一つですら自分だったら立ち直れないと思うようなことを体験されているにもかかわらず『騙されても、人を恨んだら近道はない。自分が甘かったと反省し、くよくよせず頑張る』と言われました。目の前の困っている人、事を見過ごしにできず一途に生きられた人生に、ご両親の教えを伺ったところ「父からは“責任を持つこと”、母からは“困っている人は助けなければいけない”と躾られました」。覚悟をもって引き受けることのすごさを教えて頂きました。
75号「何にもないから何でもある。限界集落から見えてくるもの」
寺島純子さん 2018.07
寺島純子(てらじまじゅんこ)さん
有限会社オフィスエム代表取締役、
〒380-0821 長野市上千歳町1137-2 tel 026-219-2470 Fax 026-219-2472
のぶしなカンパニー代表
〒381-2421 長野市信州新町大字信級字中村5554-1
e-mail: info@o-emu.net
URL:オフィスエム
https://www.nobushina.com/ のぶしなカンパニー
何にもないから何でもある。
~限界集落から見えてくるもの。
私は、長野市で小さな出版社を営んでいる。外付けのらせん階段しかない古ぼけた小さなビルに越してきて5年。少しずつ手を入れながら蘇らせてきた。このビルと付き合っていくうち、人生の下り坂をまっしぐらに突き進んでいる自分と重ね合わせてみるようにもなった。時代は古いものはどんどん壊して新しいものを買えばいいという風潮である。でも、そんなふうにして築いてきた現在の暮らしは果たして豊かになったのだろうか。スマホさえあれば辞書も要らない、新聞もいらない、本なんて読みませんという若者が増えている。切り捨てられてゆく古いメディア、古い建物、古い人間……。時代に逆らうように私たちはポンコツビルにこだわり、出版にささやかな誇り、いや「意地」をもって生きてきた。
◎何もない。それがどうした。
私が3歳まで育った信州新町の信級(のぶしな)は人口約130人60世帯。人口の60%ぐらいが65歳以上という高齢化・過疎化が進んだ限界集落である。村には水道がない。当然ながら下水道もない。信号もない。店もない。横断歩道もない。とにかく何もない。水は各家が湧き水を引いている。この地域にお金をかけたところで回収の目途が立たないということらしいが、村の人たちは「それがどうした」という風である。
2000年、今、記録しておかなければ、いつかは村が消滅するかもしれないという悲痛な願いから写真集をつくりたいという相談があった。1年間かけて出来上がったお祝いの席で、村がいつか地図から消えてなくなってしまうなんて嫌だ、と言って大泣きをした時から信級と関わって生きていきたいと思うようになり、取り組みに対する名前を「のぶしなカンパニー」と名付けた。2017年5月から村のまん中にある元農協の精米所だった蔵を半分手作業で改造し、もらってきた板や古材などを利用した「ひろってきた食堂」みたいな建物で「かたつむり」という村唯一の小さな食堂を始め、金曜日の夜はバルも営業している。
高齢者ばかり、歯が抜け、手が震え、腰が曲がった人たちが、朝から晩まで働く。私たちはそういう年寄りたちから山のこと、水のこと、さまざまな生活のことを教わり、助けてもらって生きている。世の中から見放された村で、世間から価値がないと思われているお年寄りたちが、なんと自由に、美しく、たくましく、楽しそうに生きていることか!
「地域活性化」というけれど、活性化なんて失礼な話である。逆に、私たちが失ってしまった「生きる力」を信級で一つ一つ回復させてもらっているのである。ミヒャエル・エンデの「モモ」のなかで、時間泥棒から時間を奪い返しに行くと、カシオペイアという亀が「ゆっくりいくのが一番早い」と言う。その通り。信級には、戦後の科学技術の急速な進歩と経済最優先の価値観のなかで失ってしまった大事なものが生きている。
これから日本や世界がぶち当たるであろう壁を突き破っていく力は、もはや都会にはない。あるとすれば、信級のような僻地の、小さな営みのなかにある。出版も、のぶしなカンパニーも、きわめてアナログな取り組みである。顔を合わせて、土にまみれて、語りながら、笑いながら、無駄なことを一生懸命やり、効率なんて考えず、季節の移ろいや、小さな虫けらに心を致しながら、来るべき未来の扉を開けていく底力を蓄えていきたいと思っている。
76号「いのちの喜び溢れる未来が見たい」
岩崎靖子さん 2018.11
岩崎靖子(いわさきやすこ)さん
映画監督・NPO法人ハートオブミラクル
兵庫県伊丹市千僧5丁目91番地1、9-302号
電話番号080-3781-4658
アドレス yasuko-i@heartofmiracle.net
ホームページ ハートオブミラクルhttp://heartofmiracle.net/index.html
いのちの喜び溢れる未来が見たい
ドキュメンタリー映像作家をしています。ドキュメンタリーが大好き、人が大好きです。もともとは、引っ込み思案で人付き合いが苦手。人前が大の苦手で、自分の殻に閉じこもっている人間でした。そんな自分を何とかしたくて、コーチングという自己開発の勉強を始めます。師匠の岸英光さんが言いました。「苦手」や「嫌い」の奥には、「興味がある」「大好き」があるんだよ。確かにそうだ!本当は人が好き。自己表現してみたい。溢れるような想いに、自分が一番びっくりしました。普段「これが好き」と思っている事の外側に、本当に自分が求めているものがあるのかもしれません。
大好きなドキュメンタリーを自分で作ってみよう!人づきあいが苦手なので、一人で作ろうと悪戦苦闘。挫折しかけた時、映像の仕事をしている友人の小野敬広さんに勇気を出して、助けを求めました。小野さんは機材を自由に使っていいと言ってくれ、編集の仕方も教えてくれました。
山元加津子さんの「宇宙(そら)の約束」に心を揺さぶられ映画制作を開始しましたが進んでいく中で、資金が足りなくなって来ました。ピンチ!です。その時、不思議な名前で寄付がありました。窮状を察した小野さんが、何も言わず亡くなったお父さんや愛犬の名前でしてくれたものでした。それも、簡単に出せる金額ではありません。泣きました。私は一人で何でもやれるし、生きている気になっていました。違いました。私の知らないところで、たくさんの人が支えてくれている。だから私がこうして活動していられる。ピンチを乗り越えさせるものは、自分の能力や努力も必要ですが、もっと大切なものは“人との絆”だと思いました。
人と人がどうやったら幸せに一緒に生きていけるかを、映画づくりを通して探究し始めました。小さい頃、両親が幸せそうに見えなかったのです。神経をすり減らすきつい仕事についていた父は、抱えたストレスを家で発散しました。母は何も言わず従っていましたが、こっそり壁に向かって涙をぬぐっていました。では父が悪いのかというとそうではありません。マイホームを建て、三人の子どもを育てるために、必死に仕事をしていました。誰も悪くないのに、みんなが辛そう。どうしたらみんなで幸せに生きていけるんだろう?それが私のテーマだった気がします。
映画を観て下さった方が、「許せないと思っていた母親に、今度会いに行こうと思います」とか、「自主上映をしている内に、だんなさんが協力的になって、家庭の中がとても平和になったんです」と言って下さるようになりました。小さい頃の悲しみが、こんな形でお役に立てたと思いました。悲しみの中に使命がある、という言葉を思い出しました。
今、私は、人だけでなく、虫や草や動物、微生物も含めてみんなで幸せに生きられる地球をテーマにしています。科学文明の発達により、生物が年間4万種というスピードで絶滅していく今、人類は舵を切る時に来ているのだと思います。答えは簡単には出ません。だからこそ、人の絆で、みんなの知恵で、乗り越えていきたい。命の喜び溢れる未来が見たい。それが私のワクワクの源です。
77号「環境の再生、自分の道の再生」
高田宏臣さん 2019.05
高田宏臣(たかだひろおみ)さん
株式会社 高田造園設計事務所代表
265-0051 千葉市若葉区中野町2171-2
☎ 043-228-5773
メール:Info@takadazouen.com
URL:http://www.takadazouen.com
地球守ブログ
「造園と環境」全文こちらにあります。
環境の再生、自分の道の再生
僕が造園の仕事を始めたきっかけは、放浪の旅の途中のことでした。登山に明け暮れた高校時代、自然環境を守る仕事がしたく都内の大学で森林、林業、土木を学びながら、わずかなお金と大きなザックを担いで旅する生活を続ける中、沖縄でお金が尽きかけ、働かせてもらった造園の仕事にすっかり魅了されました。
ただ、その土地の歴史に何の関係もない庭木を用い、風土や暮らしと関係のない庭園を日常生活の場に作ることの意味が分からなく、戻って復学し、自然樹木を尊重して庭を造る茶庭師の下で修業し数年後独立しました。
その土地を守り続けてきた何気ない自然の木々を、庭園樹木の主木として扱うことで、山と街とが環境としてつながり、千年万年の営みと現代とがつながり、そこに郷土愛も郷愁も育まれるもの。未来を思い、土地を思い、子孫を思う土地の暮らし人の誠の積み重ねが大地の祝福を受けて、そこに風土環境が育ってゆく、それこそがまぎれもない、地球における人の本当の役割であります。一貫して、その土地の自然植生樹種を組み合わせて庭を作ってきた理由はそこにあります。
30代初め転機が訪れました。鎌倉市で、山を背負った住宅地開発に伴い宅地造成許可基準のために裏山のキワに作った分厚いコンクリート製の擁壁。その設置後数か月で植生は荒れ果てて地表は乾き、しっとりした鎌倉の山らしい面影は見る影もなく消えてゆき、2年後、その擁壁の上の裏山の環境を守ってきた100年のケヤキの大木が突然に、根こそぎ倒れたのです。擁壁建設による水脈の遮断、それにともなう土中の水と空気の流れの停滞が招く、土中環境の劣化により、根が枯渇したためでした。
人にも環境にも健康な場を創ろうとしてきたのに気付かず周辺の環境まで痛めてしまっていた…、愕然とする出来事でした。同時に、大地の環境は土中でつながっているという、当たり前のことに気づかされた瞬間でもありました。その後全国の土砂災害や水害発生地、森林崩壊現場を見て回るようになり、土中環境に深く意識を向けるようになりました。
そんな視点で山々を歩き、地域を旅してまわる中、道路一本、ダム一つ、トンネル一本といった今の建設土木構造物がどれほど広範囲の環境を壊してしまうか、目の当たりにしていきました。現代の建設土木においては、自然の働きを、より大きな重量と力で抑え込もうとする、力学的な発想のみで対応しようとします。が、自然環境は、その力比べの果てに環境を浄化する力も、いのちを養う力をも失っていきます。
それまで取り組んできた、すべての先入観も技術も造作も、徹底的に見直して、日々、傷んだ環境の再生に取り組む中、古来の土木造作の中に、現代の私たちが見失ってしまった大切な智慧が次々と見えてきました。長い歴史の中で、風土に根ざして豊かな文化を育んできた先人たちは、その営みの中で環境をもより豊かに、より、いのちの生産力の高いものへと育み続けてきた果てに、私たちが生きていける環境へとつながっていたのです。
安全も環境も、そして美しい故郷の山河も何もかも、急速に失われています。それは、環境のつながりも、守るべきものは何かも、今の暮らしの中で忘れてしまったことに始まります。新たな文明社会へと人は進化しないといけません。大切なことは、一人一人の気づきから、そのために、残りの人生を未来のために、投じていきたいと思います。
本文は、お寄せ頂いた原稿をまとめたものです。全文こちらでご覧ください。
78号 「治さない医者の原点」
川村敏明さん 2020.08
川村敏明(かわむらとしあき)さん
医療法人薪水理事長・浦河ひがし町診療所院長、
小規模多機能型居宅介護事業所いろり
057-0007 北海道浦河郡浦河町東町ちのみ1丁目1−1
Tel. 0146-22-7800
「治さない医者の原点」
「僕は、原稿書かないのでなく、小学校の原体験がトラウマで書けないんです…」と語られる精神科医川村敏明先生の聞き書きです。(文責・鶴田紀子)
僕は医者だから、認知症になると治してくださいとか、どうしたら良いですか?と問題対策ばかり聞かれる。けれど、『問題を何とかする係』とは、結果的に人間のあら捜しばかりする。本来の私は医者という役割を外せば、あらさがしをするのは趣旨に反します。それより人間として、子供からお年寄りまで、『こういうところイイネというところを見つける係』でありたい。不安で行きづまってしまうような考え方をするのでなく、「大丈夫何とかなるから」と、その何とかするつながりを私は用意していたい。
医師が伝統的に強さをゆだねられ、すべてを決める権限の背景に、世間の評価を気にしている小ささを見て、医療・権威のあり方に疑問を感じた。ゆだねられ期待された通りに動こうとすると人はいやらしい状況になる。ゆだねられる側は何を引き受け、何を引き受けないか。僕は思ったのは患者さんだけでなく、人は弱い。弱さを常に持っている。どういう局面で出るのか。戦前・戦後を考えると、日本を動かしてきた軍人・政治家たち、何万、何千万人の人達の命を犠牲にして、権威たるもののウソ、まやかし、自己保全。正直になる人がいない。それを見ると権威に絶望する。不必要な権威を持たない、お願いしますと言われても、受け取らないぞという思いでいます。
精神病の人は幸せになれない、不幸な病気とみられるのは何故か、そこに疑問がありました。全知全能の神様が精神病の人を、この世に作り与えたとしたら、何故この人たちが不幸を運命づけられた形としてあるか、その意思を知りたかった。精神病が不幸?いや違う。不幸な存在と見てしまう視線が、不幸な患者を生み出した。その一番の原因は世間の期待通りにやってしまう医者だ。誰も世間の人たちは見ていないし信じないが、すごく楽しそうに話し、大の大人が腹の底から笑っている患者さんを僕は見た。こういうことが可能なら、すべてが不幸で、全部医者の言うことを聞かなくてはいけないのは変だ。医師は何をすればよいのか、というこだわりを僕は持っています。
「100年前は座敷牢。それは無くなったけれど、今も、やっぱり閉じ込められている。私たちはその考えを切り替え、入院を止めました。そのため何が大事だろうかと、あの浦河という田舎から考え、“この町に暮らす幸せ”が、可能にはなってきています」と、昨年、東大医学部で話しました。精神医療は、なぜ今も変わらないのか考え、思ったのは医師の在り方。医者ももっと悩んだほうが良い、医学を研究するのでなく、人のありようを研究する。
権威に縛られないで、自分の体で生きて子供を養い、今も生きている人から何を感じ、何を学ぶか。僕には笑い声の記憶がある。親も労働者で、田舎の人たち、漁師さんや市場で働く人たちはよく笑っていました。体はって生きてきた人たちの中で生まれ育ったところに、自分の原点があります。
精神障害の人達の世界に、自分のありたい、自分が生きたい道が見えたのはたしかです。ごまかしの効かないところに、器用にいかない、この世的には損な生きにくい社会を生きているところに人としての確かさ・真実味がある。彼らが生き方を通し、健常者の課題、問題、ずれを浮かび上がらせる。神様の意思がそこにあると僕は感じました。
健常者と呼ばれる人たちも弱さを与えられています。情けなく、すっきりしないことを大事にし、問題を引き受け右往左往しつつ悩み考える時、自分自身の生き方を取り戻せる。自分と向き合い、自分自身に問いかける事。本来何をする人生か、私の役割とは何なのか。何がしたいか、何が大切か。子や孫や連なる人に何が伝わるか死んでからも楽しみです。
79号『土地に生きるシリア難民を見つめて』
小松由佳さん 2021.0215
小松由佳(こまつゆか)さん
フォトグラファー。作家。
2006年、世界第二の高峰K2( 8611m / パキスタン )に日本人女性として初めて登頂。植村直己冒険賞受賞。
https://yukakomatsu.jp/profile.html
連絡先(サイト内):https://yukakomatsu.jp/contact.html
『土地に生きるシリア難民を見つめて』
人間は、未知なるものに惹かれ、それを知ろうとする存在だ。例え先が見えず、大きなリスクが待ち受けているとしても、私たちは見たことのない世界を見ようとし、知らないことを知ろうとする。そして私もまた、そうした一人でありたい。
パキスタンと中国の国境に位置する、世界第二の高峰K2(8611m)。2006年、この山に日本人女性として初めて登頂した私は、下山途中でビバーク(不時露営)を余儀なくされ、生と死の分岐点から生還を果たした。この経験は、ただ人間が生きていることが、それだけで尊いという気づきを与えてくれた。以後、ヒマラヤを離れ、〝人はいかに風土に生きるのか〟を知るため、草原や沙漠を旅してきた。
そうして出会った中東の一国がシリアだ。シリア中部、世界遺産のパルミラ遺跡が残るパルミラ郊外の沙漠で、土地に生きる人々の平和な営みを撮影したものの、2011年からの内戦で、親しい友人たちが難民となっていった。夫もその一人だ。かつてラクダの放牧を生業に、総勢60名近い大家族で暮らしていたが、内戦下の政治事情から難民となり、愛してやまなかった故郷を離れた。
物事には、時を経なければ語れないことがある。夫との出会いや結婚、彼がどのようにシリアを逃れたのかについては、これまで公にすることができなかった。シリアに夫の家族が残っており、真実を語ることで、彼らに危険が及ぶ可能性があったからだ。だが2016年には彼らもまた難民となり、その軛がなくなった。今なら全てを語ることができる。そのタイミングで一冊の本を書いた。『人間の土地へ』(集英社インターナショナル/2020年9月)。
サン・テグジュペリの『人間の土地』からタイトルをいただいたこの本は、私自身初のノンフィクション本でもある。ヒマラヤに登り、シリアの沙漠の暮らしに出会い、内戦を目撃し、難民となってゆく人々の姿を記録した一冊だ。人間が土地に生きるとはどういうことなのか。そんな普遍的な問いを投影した。この本を通して、少しでもシリアや、難民の現状に目を向けるきっかけが生まれたらと願っている。
シリア難民の一人である夫は、日本に来て7年になる。なかなか日本社会に馴染めず、様々な紆余曲折を経てきた。現在では、中古自転車をヨルダンに輸出する事業をし、自国の文化に近いコミュニティの恩恵を受けながら、シリア人として生きることを模索している。しかし家事と育児に全く参加せず、仕事においてもゆとりの時間を愛し、収入が不安定でも気に留めることがない。結婚生活はひたすら共生について考えさせられる日々だ。
私が考える共生とは、「理解できない」ということを理解することだ。対話を重ねることは大切だが、根底にあるルーツなど、前提が違えば話し合って解決できることばかりではない。価値観が違っても、同じ場に存在できる方法を模索すること。それが、現代の共生のあり方ではないかと思っている。
内戦の勃発から間も無く10年。シリア情勢は未だ平和からほど遠く、国外へ逃れた膨大な数の難民は、様々な苦労を抱えながら今日も異国の地に生きている。シリアの人々が、どのように激動の時代を生き抜いていくのか。これからもその姿を見つめ、伝えていきたい。
80号「美味しく 楽しく あなたらしく」
船戸博子さん 2022.04
船戸博子(ふなとひろこ)さん
船戸クリニック 漢方医
〒503-1382
岐阜県養老郡船附字中代1344
℡ 0584-35-3335/fax 0584-35-3330
船戸クリニック ホームページ :https://funacli.jp/
VillaCAMPO ホームページ :https://villacampo.jp/
※Villa CAMPO(ヴィラカンポ)はイタリア語の「庭のある別荘」の意味。私たちのコンセプトのひとつである「漢方」をかけた名前です。
「美味しく 楽しく あなたらしく」
『食事は楽しいものです。ごはんはおいしいものです。
楽しく おいしく 食べて 生命(いのち)の糧となり 身体のおくすり となりますように。』
これがわたしの思いです。
昔から野山を駆け回るのが大好きだったわたしは、草木が薬になることに興味を持ち日本漢方を学び始めました。そして、中医学の先生に師事し、中国の伝統医学を学び、漢方医として仕事を始めて40年近くが過ぎます。私の師事した先生は、日々のごはんを大切にされ、「ごはんを作らない人には私は教えない」と言われて中医学を学びました。
中国で最も古い薬学書とされる『神農本草経』には、食物や、生薬を上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)に分類し、その効能、用い方を記してあります。
・上品とは、いつ、なんどき、毎日でも食してよいもの。
・中品とは、具合の悪いときに食するもの。
・下品とは、どうしようもなく病気になったときに食するもの。
つまり…上品とは毎日食べるごはんのことです。免疫力も日々の食事で養われます。昔の中国には『食医』という仕事があり、医者の中でも一番位の高い医者であるとされ、皇帝の体調管理も行っていました。その食医は、病気にかかりそうなことを事前に察し、未病のうちに身体の調整をし、主に上品(じょうぼん)の食材や生薬を扱って体調管理をしていたとされます。
人は、生きるためにごはんを食べます。だから…日々のごはんを大切にして、しあわせに自分らしく生きてほしいと願うのです。
ただ、クリニックには体調が悪くなってからいらっしゃる方のほうが多いので、未病の段階で対応することはほとんどないのですが、来院されたら、まずはその方の性質(体質)を診るようにします。
声が低いか、高いか。 話し方が早いのか、ゆっくりなのか
眼に力があるのか、ないのか。顔の色は赤い?白い?くろい?
舌は? 脈は? などなど、望診・舌診・脈診・手相診等その方の色々な情報から、生まれ持った性質や体質を判断し、血液データから、現在の身体の状態を知ります。私は、こうして漢方医と西洋医両方の眼鏡を持ち患者さんと向き合います。同じ更年期の症状で来院されても、それぞれの方のタイプで、お薬もごはんも処方は違います。
人が死ぬまで生きるために食べるごはんは、食べる人にあったものでなくてはいけないと思っています。これがわたしの伝えたい『おくすりなごはん』なのです。それを伝える場として、現在はパーソナル薬膳会を行っています。しっかりと体質、性質、今の身体の状況を診させていただき、あなたのための『おくすりなごはん』を提案します。どんな食材を、どのような調理したらいいのかお伝えし、実際にごはんを食べていただきます。
2020年10月にクリニック隣にオープンした滞在型施設「VillaCAMPO」は「日常から離れて滞在し、隣接する統合医療センターの多彩なセラピーで体を緩め、深い呼吸で心を開放し、フナクリ食堂でおいしいお食事を食べたりして、心と身体をいたわって、あなたらしい美しさを引き出しましょう。」そんな思いです。
見えないもので私たちは生かされていて、当たり前はなく日常は神様のプレゼント。時間は後ろからは流れてきません。前を見て、「今が幸せ。今が幸せ』と思って生きていきましょう。私は、VillaCAMPOの畑に立ち、「食医という仕事は天職だ」と確信し、「今がとても幸せ」と想い、毎日生きています。
合掌
81号「良きことのためのチャレンジが好き」
渡邊智恵子(わたなべちえこ)さん 2023.02
一般財団法人「森から海へ」代表理事
一般社団法人CCF[サーキュラーコットンファクトリー]代表
〒153-0063 東京都目黒区目黒1ー1ー16目黒台マンションC308
TEL.03-5420-0195
info@circularcottonfactory.jp
一般社団法人「サーキュラーコットンファクトリー」
一般財団法人「森から海へ」
良きことのためのチャレンジが好き
「渡邊智恵子、ただいま70歳です。
北海道のオホーツクに面した小さな斜里という知床に行く玄関の町で生まれました。私の原風景は雪の積もった畑に枯れすすきが風になびいている、そんなさみしいモノクロの風景です。生まれたてのおたまじゃくし、ご存知ですか?まだプリプリで固まっているのです。すごくレアなんです!それを大好きだった同級生の家にステンレスのボールに入れて大事に大事に持っていたのよね。そうしたら気持ち悪い!!!って言ってそのまま戻ってこなかった。意気消沈して泣きながら夕暮れを背に家に帰ったことを今も思い出すのよね。
この斜里から道東の釧路に引っ越してからは陰から陽になりまして、すべてに挑戦をするようになり、まっしぐらで、思えば叶う!を体現してきたかもしれません。大学推薦の会社は全部蹴って、新聞の五行の求人広告の会社に応募、これだって思った会社に毎日のように電話をして、ようやく首の皮がつながって15年間働くことができました。このタスコジャパンで私の経営者としての心構え、社会人としての基礎をしっかりと教えてもらいました。
人生での最初の会社は本当に大事なんです。1985年に設立したアバンティは、20年以上新卒者を入れ、新人研修はとっても大事な仕事でした。倫理、人は何のために生きるのか?ということをじっくりと教え、新人には1年以内に親に会わせてくださいと言ってきました。しっかりとバトンを受けて育てますと宣言をする。そうは思ってもね、親を紹介するのはだんだん全員でなくなりました。
「オーガニックコットンと出会った時、自分の仕事だ!」と思いました。ラッキーなんです。なぜ、こんなに幸せになれたのか。祖母がいつも言っていた「お天道様が見ているよ」と、義父の言葉「愛情をお金で買うことはできないが、お金に愛情を託すことはできる」を反芻するうち、人生目的が明確になり「自分の会社が儲けたお金を社会に役に立つことに使いたい」と思って経営者の道を歩み始め、忠実に守っていたら女性社会起業家の草分けと呼ばれるようになりました。誰もしたがらないことをするのが好きで、良きことのためのチャレンジが好きです。
一昨年から、アバンティの経営から一切手を引きましたので、すべて過去の事。今は「ゴミから資源に」を最大のテーマにしています。
一つは7年前にスタートした「一般財団法人森から海へ」。鹿が年間60万頭捕獲され、うちの50万頭は捨てられています。命を無駄にせず、フードロスを何とかと考え鹿肉のペットフードを作りました。鹿肉は、高たんぱく・低脂肪・高ミネラルで人にもペットにも最高のもの。ワンちゃんの健康を守り、森を守る。ペットフードで出た利益は森を守る人の人材育成に使う目的にするため財団にしました。
もう一つは繊維のゴミから紙を作ること。繊維のゴミが世界のゴミの14%もあります。それは海に捨てられるとマイクロファイバーとなり、海の底に堆積します。ほとんど焼却している日本の繊維ゴミを、焼却しないことになったら大いにCO2の削減に寄与します。綿の紙は昔から最高の紙とされてきました。何とかそれを作って皆で使っていく。木材パルプの紙を少しづつ減らしていきましょう。地球温暖化をストップすることができるはずです。サーキュラーコットンペーパーをみんなで使っていきましょう。
82号「徳が循環する暮らしを願って」
野見山広明(のみやまひろあき)さん 2024.01
野見山広明(のみやまひろあき)さん
神家総本家 聴福庵(ききふくあん)
〒820-0066 福岡県飯塚市幸袋340-1
電話:0948-52-3221
nomiyama@caguya.co.jp
(株)カグヤ https://www.caguya.co.jp/
徳積財団https://www.tokutsumi.or.jp/about/
徳が循環する暮しを願って
私は福岡県出身で、故郷には英彦山(ひこさん)という神の山があります。その麓には、かつて山苔国(やまとのくに)があったと伝承されています。英彦山の本来の名前は、日子山といい天孫降臨のあった場所、祖神は天之御中主神こと瀬織津姫がお祀りされています。歴史とは終わった過去ではなく「今も続いている“生きている”物語」です。その永遠に続いている道をどう歩み、どう結び子孫へと物語を繋いでいくかは私たちの生き方、つまり魂の純度にかかっているともいえます。
私が取り組んでいることは、日本人の甦生(そせい)です。日本人とは何か、それはこの風土を尊び、五感で初心を伝承することです。自らのいのちを燃やしてその風土と一体になる暮らしを紡いでいくこと、天命を盡すことです。天命を知るには、まず徳を磨いていく必要があります。徳を磨いていくには、日々の暮らしを調えていくことが第一義です。なぜなら、徳は古来から循環を已まず今も私たちと共にあり、徳が循環する暮らしは、すべてのいのちが喜ぶ暮らしです。
私は7年前にご縁あった150年前の古民家、聴福庵(ききふくあん)を甦生するなかで「家が喜ぶか、子孫が喜ぶか、本物が喜ぶか」とお手入れをし修繕して直しました。そこから古民家を7軒ほど甦生し、今では日本最古の観音霊場の甦生や巡礼の道の甦生など古から続く本物の物語を生きています。私が取り組む日本人の甦生は一人では到底実現できません。ですから、同じ志ある仲間が徳を中心に集まれるように日本の文化の粋ともいえる「結」(ゆい)を甦生し、徳が循環する結が実現するためブロックチェーンという技術を用いてシステムを開発、展開しております。一般財団法人徳積財団も設立し、現在は布施や喜捨の伝道と会社の経営の二足の草鞋をはいて歩んでおります。
経営する会社は、株式会社カグヤという子どもの主体性や発達を保障する環境を調えるソフトや研修、コンサルティングを行う会社です。会社は御蔭さまで今年で22年目になります。1000年企業となるよう、竹取物語のように1000年語り継がれる会社にしようと立ち上げた会社で、すでに私が描く徳積循環経済のモデルにもなっており、社員たちはみんな生き方と働き方を一致させることに特化していて、今では子どもが憧れるような生き方と働き方をみんなで実現していると感じています。
私の提唱する「暮らしフルネス」は、足るを知る暮らし、感謝で充ちた徳の伝承体験のことです。子どもたちの未来のことを思えば、この世に生まれてきて仕合せに生きられないということは本当に悲しいことだと感じます。
人間の仕合せとは、もともとその人に具わった徳があるということです。そしてその徳は、日本人であれば日本の風土と暮らしが一致して顕現しています。これからも私たちは日本人の甦生のために「結」(ゆい)の中興の祖を目指して取り組んでいきます。ぜひ、ご興味のある方は私たちの心のふるさとに帰ってきてほしいと思います。
これからもそれぞれの持ち場で、お互いの持ち味を生かして徳を循環する社会を築いていきましょう。ありがとうございました。一期一会。