2000年9月11日東海大水害にあった折のレポートです




会社から100mほどのところにある新川の堤防が決壊し、会社が160cmほど水に浸かりました。三日会社には入れず、パートさん達も避難所暮らしをされたりされました。幸い建物が壊れたりはせず、多くの友人の助けで20日ほどで営業開始できました。つながりのある有難さを実感したできごとでした。
被災者になった気持ちをレポートしておこうと発信したメールレポートです。

(タイトルをクリックしてご覧ください)

東海大水害第1便 2000.9.13


ほ・の・ま鶴田紀子です。

昨夜部屋に射しこむ月明かりに、あらっと思ってベランダにでたら、満月間近のお月様が冴え冴えとした空に輝いていました。今朝は雨に洗われた木立が美しく、一昨日来の大雨が嘘のようです。

あちらこちらで被害がでていますが皆様のところでは大丈夫でしたか?

うちの会社は今回の大雨で決壊した堤防に近くて、水に浸かってしまいました。パートさん達も避難所暮らしをされたり、電気・水道・ガスが止まったマンションで暮らされています。幸い全員無事ですが、被害状況はまだ会社へたどり着けないので、どんな状態になっているか想像つきません。

自宅は無事ですのでお客様への対応は多少でき助かっています。界隈は胸くらいまで水に浸かってます。水が引くのに2~3日かかるとの事。せめて物がぶつかったりした破損が少ないと良いなぁと願っています。

水が引いた後の片付けを考えると胃が痛くなりそうなので、その場になってからと思ってますが、 もしこんな時の上手な片付け方とかこんな道具が便利などという事後処理情報おもちでしたら 教えていただけませんでしょうか?取り敢えず泥をかきだすスコップやへらのようなもの、ホースは用意するつもりです。万一に備えて水の用意,食料の備蓄とかは、いろいろ情報がありますが水に浸かったら、とか泥をかぶったらというのは目にした事がありませんので。(不勉強かもしれませんが)突然のことであたふたしますから、そういう手引書のようなものがあると助かるのでは思います。

ご存知でしたらご紹介下さい。


それにしても自然の力はものすごいですね。

月曜日7時30分頃退社したのですが、途中田んぼと道が一つながりになり始め、いたるところ道路が川状態でした。 船底をたたく水音の様で最初は舟に乗っているみたいとか言って面白がっていたものの、段々深くなり、ある所では中央分離帯ギリギリまで水がたまりひやひやものでした。結局途中で車で帰るのを断念、駐車場に預けて動いていた地下鉄で帰宅しました。普段30分程度の道のりがなんと4時間がかりでした。

翌朝どうやって出社しようかと考えていたのですが起きてビックリ、堤防決壊!TVで見る会社界隈はまるで水郷地帯でした。毎日庄内川を渡って通ってますが、ここ数年ちょっと大雨が降るとあっという間に道路が冠水するくらい増水し、ちょっと日照りが続くと中洲がでてくる程水量が減って会社でも上流の保水力が落ちているのかしらと話していました。

今朝の朝日新聞天声人語に ”古井由吉さんは「水への畏れ」と題したエッセーで水田や川を埋め立てて都市にしていく人間の歴史を記し、小さな川が <あたり一面を潤していた昔の力をいきなり蘇らせ、何百戸という家を浸水させることもある> と書いている”との一文がありました 田んぼがあたり一面に広がっていた頃、田に水を引き込む縦横に走る側溝を流れる水の速さに目を見張ったものでした。夏の暑さも田の上を渡る風はひんやりして自然の扇風機。いろいろな所にあった自然の貯水地が無くなり、山は木が減って保水力をなくし…様々な要因が重なって、信じられないような災害が起こる可能性は全国どこにでもあるのではないかと思います。

地球規模での自然治癒力は人間の想像を超えた規模でバランスを取っているのではという気がします。有珠山も三宅島も他人事ではないことを実感しています。



第2便 2000.9.17


多くの方のお見舞いメール、陣中見舞、助っ人有難うございました。

ある日突然被災者でした。

やっと現地に入れるようになり、初めて会社に入ってビックリ!

500kgもある機械が、水に浮き、壁に打ちつけられたらしくリフトに乗りあげており、

工場のあちこちでカエルやトカゲがピョコピョコ、チョロチョロ。一面泥の海。まるで泥田の中を歩いているようです。自然の猛威と言いますが本当に水の力はすごいものです。流し台は倒れ自分の背の高さ(160cm)位の棚に、書類ケースが乗っていたり扉の板が外れておりとんでもない所に、とんでもない物がありました。 水を吸った紙は信じられ無いくらい重くなっています。とにかく商品や物を全て外に出さない事には泥を出す事もできません。初日は5人でやったのですがうちの商品は重量物のところへ機械が水について使えませんので、ひたすら肉体労働ではかどらないと言ったら・・・

昨日は仕入先の方や御得意さん、友人等10名程助っ人に来て下さり、自分達だけでは考えられない程はかどり、半分くらい床の色が見えるようになりました。

人海戦術はスゴイ! 今日も友人が6名ほど。知り合いから借りた高温高圧洗浄機というハイテクとひたすら雑巾と板で水を掻き出すローテクで、ほとんど泥が無くなり全面床の色が出てきました。それにしても泥は実に満遍なくどこにでも入り込んで、やってもやっても泥がまるで湧いてくるような気がします。床に貼ってあったピータイルの下もヘドロだらけで、そろそろ臭いが強くなってきましたので、一応全部の床が見えるところまできて、やれやれで帰宅しました。泥だけでこんなに大変なのですから、三宅島の方々はどれほど大変な日々を過ごされている事かと胸が痛くなります。


自宅から、水に浸かった会社へ出かける時とても不思議なカンジです。

市内を通り抜ける間、あの大雨が嘘のように何の痕跡もありませんので、実感が湧きません。ところが橋を渡って枇杷島界隈に入ると、あちらこちらに運び出された家具や書類、さまざまなゴミがうず高く積まれ、被災地の様相が色濃くなってきます。

阪神大震災にボランティアで出かけた時にも感じた感触です。

賑わいを極めているような街並みが切れ、突然その一角だけ瓦礫の山。どちらが現実なのかしらと、ふと分からなくなります。橋を渡る時、川面を見ても水位は低く、これが本当に堤防が決壊した川なのかと、そこだけ色の違う部分を見なければ信じられないくらいです。


夕方消防車が走り回り、又決壊しそうだと警戒していました。

先ほど又避難勧告が出されました。うちはまだ自宅が別ですので、会社で泥と格闘してもゆっくり休む事ができますが、自宅が水に浸かった方達は本当に大変な生活です。

記録的な雨とはいえ、いつも急流とか、大河ならともかく、ちいさな川があっけなく堤防が決壊してこんな大きな被害がでるなんて信じられないような気がします。

やはり山の木が少なくなっていることや、田が少なくなっている事、道路がアスファルトで舗装されていることで、水をじっくり受けとめられず鉄砲水状態になるんだろうなぁと思います。あり方を問われているような気がします。

水害はとんだことですが、被災当事者の気分や、いろいろな人に助けられ生かされている事を実感しています。手伝いに来てくださった人が、皆さん一様にこんなにひどいとは思わなかったと言われます。ニュースではダイジェストでしかない部分があり体験が無いと想像できない事が沢山あります。(一番の実感、なんといっても人海戦術!)

これから仕事が再開できるようになるまで、なってからもいろいろ問題が山積みだとは思いますが、今しか感じられないことを、じっくり味わいながら対応していきたいと思っています。

今はとにかく堤防が再度決壊しないよう、明日穏やかな朝が迎えられる事を願っています。長い文章でごめんなさい・・・



第3便 2000.9.19


突然被災者になって、早1週間です。

沢山の方にお励まし頂き、本当に有難く、感謝しています。ただ、お手伝いできなくて・・・、と多くの方のお心を煩わせてしまい本当に申し訳ありませんでした。

多分そう思われる方が多いだろうなぁと思いつつ、メールを送らせていただいたのは、被災者は片付けに精一杯で、なかなか発信などするゆとりは持てませんが、幸い我が家は自宅が別の地域ですのでお風呂もゆっくり入れますし、食べ物も温かい食事ができますから、中からの被災状況をお伝えしたいなぁと思ったからです。

大丈夫?って声をかけてもらえるだけで嬉しく、励まされ頑張れるものです。


土曜日夜、再度避難勧告がでて冷や汗ものでした。

又決壊なんてなったらどうしようと思うと祈るしかなく、昔の人はこうして天に手を合わせていたのだろうなと思いました。お陰様でお天気が良くなり昨日、今日で大分作業がはかどりました。うちの会社のある所は西区で名古屋市ですから、昨日ゴミの収集がされとても助かりました。ただでさえ満杯のごみ処理場が、またまた一杯になると思うと胃は痛くなりそう、かといって臭いはきついですし、水についた物はほとんど使い物

にならないので廃棄するしかなく、うず高くなる一方のゴミの山にため息ものでした。

ゴミ収集車は破砕しながらゴミを飲みこんでいきます。冷蔵庫、家具,機械なんでも

グシャ、ゴー。ものすごい量のゴミの山がみるみる低くなりビックリしました。山が片付いて有難いのですが、せっせと作った商品や大事に使っていた機械が潰されていくのを見ていると、やはり切ないです。でもお陰でスペースが出来ましたから片付けも次のステップに入れました。西枇杷島地区は処理場が決まらないとかで、まだ山積み状態のようです。ゴミがうずたかく積まれているといかにも被災地!というカンジです。早く撤去される事を祈っています。


今日は住居がマンションの上の階だった人や、床下だったというパートさんも来てくださり、助っ人の友人やみんなでワイワイ片付けができました。

避難所へ行っていた時の話しを伺うと、ヘリコプターがうるさく広報の案内がよく聞

こえないので上に向って ”うるさぁい!飛ぶなら食料や水の一つも上から落とせ!” 

と怒っている人が何人かおいでだったそうです。ある所では最初非常食を配られたのは老人,子供のみでそれも乾パン少々、水一本を3人で分けるというような具合。

ところが割合被害の少ないところで牛丼やらいろいろ手に入り、あるパートさんのご

主人は沢山もらって被害のひどかった、他の地区のパートさんの所へ運んで下さった

そうです。阪神大震災の時もそうでしたけれど、こういうアンバランスはどうしたら解消されるのでしょう。災害にあって気が動揺している時は、せめて温かい食事でも取れると落ち着きが違うのにと思います。

以前TVでアメリカの災害対応のドキュメントを見ましたが、被害に遭った直後に担当者が見て廻り、その場で被害状況に合わせ小切手を切って被災者に渡していました。

そこまでの対応を望みはしませんが、せめて避難所暮らしの方に安眠できるスペース、温かい食事、トイレ、お風呂が確保されれば、どれほど落ち着かれる事かと思います。

会社のお隣さんは重度障害の方の無認可通所施設で、やっと資金を集めて作ったのに…と話されてました。お年寄りや障害のある人、その家族にはとてもこたえる状況です。

水を吸った畳の重さはものすごいですから、パートさんたちも比較的被害の無かった

人達が仲間のパートさんの家へ手伝いに行って下さいました。畳を運ぶ時”あと2枚!”とか声を掛け合いながらやっとの思いで運ばれたそうです。

現在進行形の復旧作業ですが、今感じている事は人の確かさ,有難さです。

現場に入れるようになった日から、毎日誰かかれか友達が手伝いに来て下さって、信じられないくらい早く再開のめどが立ちそうです。

床の泥水を掻き出すのに、あの手この手でした。工場の床はデコボコで水がすぐ戻ってきて途方に暮れていた時、建築家の友人は壁面に穴をあけて排水溝を作ってくれて作業効率大幅アップ! 雑巾に含ませバケツに絞るという原始的な方法も、これが確実に泥水が減っていくのですね。若い友人は体力に物言わせ?何往復も…みるみるきれいになっていきました。

その次の日は、なんとか使いたいとピータイルを残した所がやはり中からヘドロがしみだしてきて結局全部はがす事に決定。(クサイ臭いは元から断たなきゃダメ…)

全部はがしタワシで洗い上げた頃、大工さんの友達が水も吸うという掃除機抱えて来てくれたおかげで仕上げができました。丁度良いタイミングで、さまざまな技の持ち主が現れて下さり、目に見えてきれいになっていくので初めは”どうにもならん、どうにもならん・・・”と言っていた社員さんもみるみる明るい顔になってきました。

今合言葉は”(水が)出る前よりも美しく”です。折角物が減って?スッキリしたのだから大掃除!と言って作業に励んでいます。


沢山の人に助けていただいた事で社員一同どれほど救われた事でしょう。

災害に遭ったことは嬉しい事ではありませんけれど、どうせなら楽しい被災者生活!と運動会ののりで作業しては休憩し、今日はお隣の作業所の方も呼んでコーヒータイム。助け合える関係性があると、辛い出来事も笑って頑張れます。

2日に渡り手伝ってくれた友人から”大変な状況にもかかわらず確かな人の心のつながりとあたたかさに溢れていて泥の汚さも臭いも気にならなくなってしまったように思います・・・”とFAXを貰いました。しんどい作業を手伝って下さった人からの、こういう文章は本当に嬉しいものです。この嬉しさは、取りも直さず孤立している人の大変さではないかと思います。

障害者施設は登録されているのでボランティアの人も集まられるそうですが、お年寄

りだけのお住まいや無認可施設、家族で抱えている人の所は盲点になるそうです。

コミュニティの大切さを思っています。またまた長くなってすみません。

やはり非日常の世界ですので感じること多々あります・・・

第4便 2000.9.26

水害から2週間です。作業できるようになり10日、延べ35名にも及ぶ人達に手伝っていただき、思ってもいない程早く片付ける事ができました。
まだ機械の点検修理、エアコン、電話の修理等を残しているものの今日からほぼ営業を再開できるようになりました。
手を貸して下さった方、差入れ、お便り、メールと様々に励まして頂いたお陰と深く感謝致しています。水害に遭ったことは嬉しい事ではありませんが沢山の方達の励ましのおかげで、落ち込むことなく明るい被災者?でいられました。主人と二人嬉しいね、有難いねの連発でした。
昨日は10日ぶりに休めました。充電したくてほんの短い時間ですが、近くの山へ出掛けました。すっかり秋めいて栗が色づき始め、干上がっていた沢には水が戻っていました。木立のざわめき、小鳥のさえずりに生き返る想いでした。

界隈のゴミの山もあらかた片付けられ表からは何も無かったかのようです。が、近くの自動車修理工場の社長さんはいつもの元気はどこかへ行って”どうにもならんわ、どうやっていこうか・・・”と肩を落とされていました。借家住まいのご主人を亡くされ母一人、娘一人の方は大家さんから建て直すつもりは無いから2ヶ月で転居先を見つけて欲しいと言われ途方に暮れていられます。今日は給料日でした。低賃金働き放題のうちの会社でも袋詰めしながらため息が出るほど税金は引かれます。こんな災害に遭った時でも安心していられるよう生活の基盤を支える為に税金が使われるなら、少々高い税率
であったとしても納得がゆきますが、営々と働きつづけてきた人が、天災でそれまでの全てを失っても自助努力を求められては生きる意欲を失ってしまいます。

都市は殊に災害にあったらひとたまりも無いもろいものです。
現代のライフスタイルが引き起こす災害も沢山あると思います。どこであれ被災地になる可能性があることを思えば、どんなライフライン,どんな支援が必要か、自分の事として誰もが考えることが大切ではないかと思います。不安でイッパイの避難所で乾パンとお水しかない切なさはどれほどかと思います。近隣の給食センターのような所で、焚きたておにぎりを作って届けるような仕組みはできないものかなぁと思いました。行政の役割だとか、ここがやるべきとかでなく自分達が安心して暮らしていける社会は、自分達が創るつもりにならないと同じ事の繰り返しのような気がします。突然の災害で家や職場を失い、心ならずもホームレスにならざるを得ない可能性は誰にもあると思いました。

今回の災害で水や電気の復旧の早さに驚きました。ゴミの山を運んで行って下さる方達も泥にまみれ、滝のような汗を流しながらどんどん山を崩していかれました。一度で運びきれず、すぐ来ますからねと声をかけて下さいました。大変な仕事だなぁと頭が下がりました。現場で修復作業して下さった人達は皆さん少しでも早くと精力的に作業されておいででした。機能していたものがストップすると、いかに多くの人や技術や物に支えられ暮らしていたことかと驚くばかりです。そのつながりが見えなくなってしまっていることがお互い様、お陰様の関係性を失わせているのかもしれないと思いました。
又長くなりました。読んで下さって有難うございました。

第5便 それにつけても泥のスゴサよ 2000.10.7

ふと気付けばベランダの彼岸花が咲いていました。秋ですね。

先週から倉庫整理と、一度洗ったものの再洗いをしつつ通常業務も始まり少しづつ日常を取り戻してきました。泥に浸かった材料をメーカーさんに洗浄に出していましたが3分1位は難しいとの事。社内でも洗ってますがきれいになったように見えても、乾くと白い粉を吹いたようになり洗っても、洗ってもというカンジ。キリがないので先週末でTシャツ姿に明け暮れた日々に終止符を打ち、月も改まった今週から営業マンは久しぶりのネクタイ姿に戻りました。多くの皆様のお陰で本当に早く復旧できました。

水に浸かっただけだからと思ったのは大きな間違いで、泥をかぶるというのはスゴイものでした。ある機械など一度きれいにしたにも拘らず細かい所からバケツ1杯もの泥が出てきてビックリでした。幸い事務所が3階でしたので少しづつでも営業ができましたが、事務所も浸かった所は本当に大変だと思います。会社の人が近くを車で走ったら、伝票や台帳を暗い顔でめくりながら干しているのが気の毒だったと話していました。ある会社ではつい最近大きな機械を奥に据付、内装をした為に壁を壊さないと機械の修理ができないとか・・・片付けるのも、ものすごくエネルギ-が要りますが、当初は一種の興奮状態でとにかく目の前のことを何とかする事に集中していますし、ボランティアさんも入り非日常の世界で頑張れるところがありますが、ニュースにものぼらず全て何事もなかったかの様になった時からそれぞれの大変さが始まります。
 水に浸かった界隈は町工場も多く、1000社に及ぶ工場,商店の70%近くがまだ操業のめどが立ってないと先週末の記事にありました。廃業を決めた所もちらほら出始めています。

新川堤防の決壊は人災的要因も強いようです。
切れた堤防は未舗装で、対岸の堤防が工事中の為、湾曲した所で渦を巻きそれが対岸にぶつかっていた所へもってきて、すぐ上で排水機場のポンプが危険水位になってからも6時間以上毎秒30tの水を新川に注ぎ込んでいたそうです。その上地元消防団の人が、堤防が崩れかけているのを発見して消防署に出動依頼していたのですが別の所へ出ていて手が打てなかったとか。さまざまな要因が重なり堤防は決壊しました。
 あふれた川も昔は氾濫の後は肥沃さをもたらす事ができたのに、今は迷惑をかけるだけでは立つ瀬がないだろうなぁという気がします。便利快適、効率を追いかけ、人間の都合で山を削り田をつぶし、道路は舗装。元々その地域がどんな姿をしていたか知る由も無く、自然への畏れをなくし、知恵をなくし、備えをなくした私達。
 宇宙物理学者の佐治晴夫先生は著書の中で環境問題について 「一歩地球を離れて、地球にとっての川とは何だろうか、そして空気は何なのだろうか。その問いの向こうに何かが見えてくるはずです。」と書かれています。
作業を手伝いに来てくださった友人は様子を見て”地球規模のグランドデザインがいりますね”と言ってました。新聞に堤防の増強の事など書かれていました。勿論それは必要でしょう。でももっと根本的なところから見直さなければ姿を変えた新川が出てくるような気がします。

三宅島の人達は職場も失いどうされているのだろうか、何か生活費の補填でもでているのかなぁと考えていた矢先、ニュースで三宅島の人達は今貯金をとり崩しながら避難生活をされていて、長引きそうなので就職先を捜しているそうですが、なかなか見つからず生活の不安を抱えて子供達と別れて暮らされていると言ってました。不幸にして災害に遭ったとき、少しでも生活のベースが守られるような支援の仕組みはどうあれば良いか自分の事として考える必要があると思います。公的支援もそうですし、地域通貨を含めたコミュニティも大切だと思います。たまたま今回は幸運にも、多分決壊現場に近い会社としてはとても軽い被害で済んだと思います。が、もし壊滅的な状態だとしたら職場も家も失う可能性が充分あります。被災して心ならずも突然ホームレスになってしまうことがあり得る。
最初に頭に浮かんだことはその事でした。
競争社会は自助努力の世界ですが、災害にあったときも全てその論理では弱い人にしわ寄せがいくばかりでしょう。日本は世界一の水害大国だそうです。又地震列島でもあります。誰もが被災者になり得ることを念頭において、どうあるべきか考える必要があるとつくづく思います。それはシステム上のことだけでなく関係性をどう育てていくかも含め、安心して災難にあい、老いることのできる社会を創ることでもあるように思います。
 延べ35人に及ぶ手伝いに来てくれた友人、お見舞いの品や便りを送ってくれた友人,知人がどれほど支えになったことでしょう。大変な中でも明るくいられたのはそれらの人達のエールによるものです。無くしたものよりも、与えられたものの大きさに感謝で一杯です。そして長いメールを読んで頂き有難うございました。

ほ・の・ま  beyond the border
鶴田 紀子